しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

流れ降る星の雨音 〜燐〜 004『シュレディンガーの猫の逃亡』

 ここは僕の部屋。月香がうちに寝泊まりするようになってから、二週間が経った。
 時間は五月下旬の夕方。下校中の帰り道はほんの僅かに小雨が降っていた。もうすぐ梅雨の季節がやってくると思うと、やや気が重くなる。だけど隣を歩いていた月香は『私は雨が大好きだよ』なんて言うんだ。理由はただなんとなくらしい。漠然としすぎているけど、それは少し羨ましくも感じてしまう。

「あ、三人のライブ配信、始まったみたいだよ」
「…………」

 今日はアイドルユニット『虹色ゴシップ』の生ライブ、第一回目の配信日だ。コンセプトは先日月香が提案したとおりで、三人の日常を撮ること。あの三人の日常と言えばいつも喧嘩ばかりで正直不安しかないけど、とりあえずリーダーの陽川と、撮影係の隼斗がうまくまとめてくれるだろう。……多分。
 本来なら僕と月香もプロモーション補佐係として、撮影スタッフのお仕事をするはずだったのだが……。

「ところでリッキーの方は勉強進んでる?」
「そう心配してくれるんならわざわざ僕の部屋で動画を観るのはやめてくれないか?」
「だめだよ。今日の私はリッキーの先生役なんだから」
「あの先生。あなた僕の邪魔するばかりで何一つ教えてくれてませんよね!??」

 残念なことに、先週行われた英語の中間テストで僕は見事赤点を取ってしまったのだ。おかげで明日は追試を受けることになり、撮影は隼斗に全て任せることになってしまった。挙句に隼人は、この困った先生を僕にしっかり押し付けてきたわけで。

「だってリッキーがどこわからないのか全然わからないんだもん」
「……ほんとそれどういうこと!??」

 ちなみに月香の英語の得点は、百点満点だった。全教科をひっくるめても、学年一位というやつらしい。何が釈然としないって、一緒に暮らしてるはずの月香が勉強している姿を僕は一切目撃していないという点。つまりこいつはまともな勉強なしで学年一位とか、頭おかしいとしか言いようがない。

 ああ。神様はどうしてこうも世の中不平等な世界を創り出すのだろうね、全く。


「そもそも英語なんて教科書十回読んで丸暗記すれば誰でも百点取れるんじゃないの?」
「無茶苦茶言うな!!」
「でも私は教科書なんて二回くらいしか読んでないけどね。でも二回で百点取れるってことは、十回読めばその五倍で五百点とれるんじゃないかな?」

 月香の話にはもう完全についていけない。そもそも英語の満点はどうあがいたって百点だ。五百点とか、英語の教科書を繰り返し読むだけで他の教科の点数まで上がってたまるものか。てゆうか英語の教科書を二回読むだけで百点取れるとか、それもそれでどうなんだ!?

 完全に埒が明かなくなってしまった僕は、月香のいるこの部屋で英語の勉強をするのを諦めた。後で月香が自分の部屋に戻った後にでも、英語の教科書を丸暗記すればそれで問題ない。確かに英語の勉強なんてどうしていいかわからなかったから、教科書をまともに読めてなかったのも事実だ。
 僕は部屋のテレビに電源を入れると、『虹色ゴシップ』の動画チャンネルが映る。するとさっきまでスマホでチャンネルを観ていた月香も、僕の横で一緒にテレビの方を観始めたんだ。

 動画に映し出されたのは事務所の撮影スタジオ。ごく一般的な女子高生の部屋っぽく、見事にデコレーションされている。日常を映し出すのがこのチャンネルの趣旨だって、昨日陽川も言ってたしな。

『碧ちゃん、普段は一人で動画撮ってるでしょ? 今日は三人だけどいつもと違うとことかないの?』
『大アリよ。せっかくチャンネル作って歌も歌わずに流すのこれ? 随分程度の低い電波ジャックよね?』
『ちょっと。碧ちゃんはわたし!! あなたの名前は香英照でしょ!??』

 動画を観始めた途端、流れてきたのはこの有様である。正直頭が痛いとしか言いようがない。
 『虹色ゴシップ』初投稿動画ということもあり、まずは三人の自己紹介というコンセプトで一応台本っぽいものを陽川が用意していた。それを月夜野と緑川、そしてスタッフである僕と月香と隼斗の計六人でレビューしたのは昨日のこと。もっともレビューと本当に呼べるのか、月夜野と緑川が喧嘩するばかりで、まともなそれになったかは定かでない。むしろ昨日の災難がそのままこうしてお茶の間に流れているのだ。

「なにこれ。昨日の打ち合わせのまんまじゃん!」
「ああ。そのまんま過ぎてどうしようもないな」

 僕の認識は月香も同じだったようだ。いくら『虹色ゴシップ』のありのままをネットで晒していこうというコンセプトとはいえ、これはこれでありなのだろうか?

『あの緑川碧海がアイドルデビュー!? これついに時が来たって感じじゃね?』
『香英照ちゃんがテセラムーンってマジ? 素顔めっちゃ可愛いじゃん!』
『春河ちゃんの怒った顔、ほんとさいこー』

 一応、コメント欄はおよそ好評のようだ。陽川の顔だけが次第に曇っていくのも若干気になるが。

 緑川は元から女子高生声優としてそれなりに知名度があり、いつアイドルデビューという話が出てもおかしくない状況だった。コアな緑川のファンは既にそこそこいるらしく、今日の視聴者の大半は緑川のファンである可能性も否定できなくはない。
 そこへ別チャンネルの主、テセラムーンが加わる。こっちでの芸名は『香英照』と書いて『かえで』と読ませるらしい。テセラムーンが放つ神秘的で独特の空気感が、どういうわけか毒舌キャラの香英照として、異彩な変化を遂げていた。とはいえ、緑川が太陽なら、月夜野は月。なかなかのバランス感覚だ。
 元々女優だった陽川は、芸名を本名そのままである『春華』から『春河』へと変更している。春にちょっとしたスキャンダルがあったばかりで、気分を一新したかったと本人も話していた。その初仕事が『虹色ゴシップ』というアイドルユニットのリーダーとは、果たして幸なのか不幸なのか。

 月香は僕の横にちょこんと座り、小さな子供のような眼差しで純粋に動画を楽しんでいるようだった。童心に返ったかのような、もしかしたら遠い思い出の何かを探しているのかもしれない。

「なぁ。月香は春日瑠海と動画を撮る計画してたって言ってたよな? それもこんな感じだったのか?」
「うーん、どうかなー? どっちかというと私と瑠海ちゃんがただ楽しみたかっただけだしね。お互い仕事とか忙しかったし、みんなと同じように遊びたかったみたいな感じかな」
「お互いに、遊びたかった……?」
「……うん、そう。私だってみんなの知らないこと、いろいろやってたんだよ?」

 一瞬そこには間があって、何かを条件反射で取り繕ったように見えた。けど月香の隠し事は今に始まったことじゃないし、恐らく僕が聞いてもまともに答えてくれる気もないだろう。
 春日瑠海は間違えなく、国民的子役と呼ばれる程度には今も忙しい毎日を送っているはず。月香だって……だけどこの家に来る前の月香のことなんて、僕が知る由もないんだ。

「そういえばリッキーはさ、前に好きな人がいるとか話してなかったっけ?」
「……ん? なんの話だ?」

 とはいえ唐突にそんなことを聞かれたところで、僕の頭がついてこれるはずはない。

「ほら。泣いてるのか笑っているのかわからないけど、忘れられない人がいるって」
「あぁその話か。あの時も言ったけど、別に好きな人ってわけでも……」
「でも、やっぱし好きだったから忘れられないんじゃないの?」

 そもそも月香はなぜ急にこの話をし始めたのだろう。僕だって確かに忘れられない人ではあるけど、正直忘れかけている人のことだ。いつかは完全に記憶から消滅してしまって、本当に僕の中からいなくなってしまう存在だと思うのに。

 それでも僕は、なんとか彼女の顔を思い出そうと試みる。
 彼女……? やはりその人は『彼女』だと断定してしまってよいのだろうか。

「きっと僕の知ってる彼女と、僕の目に映る彼女が、あまりにも違いすぎてたのだと思う」

 まるで誰かに言わされてるかのよう。気がつくと僕はそんなことを話していた。
 そこに、嘘はない。

「ふーん。なぜそう思ったの?」
「わからない。そもそもその人が誰なのかも未だに思い出せないから」

 月香も録音したテープを再生してるかのように、淡々とそう聞き返してくる。だけど今度はそれに答えることができなかった。まだどこかにピースを見落としてるのかもしれない。

「でもひょっとしたらその彼女はさ、ちゃんと見てくれてる人がいるのにそれに気づかなくて、雲隠れしちゃっただけかもしれないよね。シュレディンガーの猫は箱を開けたら勝手にいなくなってたみたいなさ」
「……ん? それって観測理論とやらがさすがに崩壊してないか?」
「まぁそれだけ身勝手な猫だったってことじゃないかな」

 月香は笑ってそう答える。本当に勝手で無茶苦茶な理論だ。
 ただなぜだか不思議なことに、真実とはそう遠くない話にも聞こえなくもなかったんだ。

『にしてもテセラムーンってネットだけの存在かと思ったけど、本当に普通の女子高生だったんだね』
『あたしが普通かどうかは議論の余地があるけど、失踪さえしなければあたしは実在してるってことよね』
『いやそこに議論の余地とかいらなくない? 紛れもなくふつーじゃないわよこの子!』
『碧ちゃんこそフォローするならちゃんとフォローしてよ!!』

 『虹色ゴシップ』の動画はまだ続いている。陽川が話の進行役で、緑川と月夜野がツッコミ及びボケ役。紛れもなく普段どおりの三人で、それでも動画はちゃんと回り続けているんだから大したもんだよな。


追記:
ちなみに英語の追試対策はその日の夜に教科書を五回読み返したら、無事合格できましたとさ。