しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

流れ降る星の雨音 〜楓〜 006『酢豚の酸味と嘘と本当』

 月が変わって七月となり、『虹色ゴシップ』デビューライブまで後一週間と迫ってきた。
 七夕ライブとも称されたそのライブ会場は、千人ほど入るらしい。最初聞いたときは無名のアイドルグループのデビューライブで千人とか何言ってるんだろう?とは思った。が、声優でそこそこ売れだしている緑川さんがいて、且つ『テセラムーン』として活動しているあたしの知名度も勘案すると、それくらいは見込んで当然と社長に諭されてしまう。実際社長の予測通りにチケットは売れたらしく、ちょうど一週間前であった昨日には全てのチケットが完売したのだとか。まぢか。

 疲れた。夏の夜とはいえ、夜風はやはりひんやりしている。昼間の暑さに比べたらとは思うけど。
 本番間近ということもあり、ダンスと歌と、調整にも余念がない。女子高生三人って決してグループとしては多い方ではないから、誰かが遅れると必然的にそれが目立ってしまうのだ。だけど陽川さんも緑川さんも小さい頃から子役をやってる、自分を魅せるという点ではプロ中のプロ。あたしは足を引っ張らないようにするので精一杯といったところ。
 人前で強がってるだけのあたしは、全然強くない人間なのだ。

 自宅マンションの前に辿り着くと思わずはぁっと息が漏れる。
 理由は疲れたからではなく、見覚えのある黒い車がそこに停まっていたから。目立ち過ぎるにも程がある。

「お帰りなさい。楓嬢さん」
「…………」

 今日のあたしは「嬢さん」付けだ。これは「嬢さん」で一つの単語なのか、それとも「嬢」と「さん」の間に単語の区切りがあるのだろうか。

「そんな露骨に嫌な顔を僕に向けないでください。せっかく食事に誘おうと……」
「これから? 冗談じゃないわよ。あたしの冷蔵庫には今日の食材がちゃんとあるの!」

 月香が元の家とやらに戻ってしまってから、食材がやや余り気味なのだ。

「なるほど。では僕にご馳走を作ってくれるのですね」
「は?」

 というかなんで作ってもらうこと前提?

「こんなところで話し込むのも目立ちますし、早く中に入りましょう!」
「っ…………」

 すると目の前の黒い車は無言のまますーっと走り去ってしまう。彼をここに置き去りにして。こいつと中にいた運転手との阿吽の呼吸は完全にばっちり決まっていた。
 だけどこいつの言うとおり、このままここで立ち話していたら間違えなく目立つ。あたしは思わず舌打ちをして、こいつをあたしの自宅の中へ入れることにした。
 別に普段から掃除を怠ってるつもりはないから大丈夫と思うけど。こいつを寝室にさえ入れなければね。


 こんななし崩し的な状況になったのも、それなりの前談があった。
 突然こいつが「また会いたい」ってメッセージを入れてきたのは今朝の始業直前のこと。だけどあたしもデビューライブ直前の大事な時期で、レッスンで帰りが遅くなるのは当然の話。だから一度は断ったはずなのだけど、「それなら今晩レッスンが終わった頃に遊びに行くね」と返ってくる。じゃなくてあたしの住所なんて知らないはずと思ったんだけど、「それなら津山さんに聞いた」とかなんとかかんとか。おい月香。

 冷蔵庫から酢豚の素を発見し、今晩はこれにしようと心に決める。疲れてるし、簡単に作れるしで、それ以上のことは考えたくなかった。料理中「何か手伝うことはない?」とか「これ洗っておこうか?」とかお邪魔虫が入った気もしたけど、一通り無視。気がつくとあっという間に二人前の酢豚が出来上がっていた。ご飯もとりあえず二人分、足りるよね?
 どこか月香と自分、二人分の料理を作っていた頃を懐かしく思えている。本当になんだかなという気分だ。

「美味しいね。楓さん、料理もうまいんだ」
「別に。これ、ほぼ玉ねぎとピーマンを切っただけですけど」

 事実その通りだ。切った野菜と酢豚の素を一緒に炒めるだけ。ちなみにお味噌汁もおまけで作ってはいたけど、これだって月香がいた頃に買ってあったお味噌を溶き、そこへわかめを入れただけだ。あいにく、豆腐などはもう冷蔵庫に残っていなかったから。

「一人暮らしだと料理だって手抜きになるのよ。一人分だけを作るのって何かと大変なんだから」
「そうなんだ。自分で作ったことないからあまり意識したことなかったよ」
「ふーん……」

 月香がいなくなってから、スーパーで買ったお惣菜をそのまま食べることが増えた気がする。それなりの材料を買い揃えて料理するより、そっちの方が安くなってしまうことのほうが多いのだ。時間短縮にもつながるし。もちろんそれがいいことだとも思えないけど。

「嶋田さん、妹さんがいらっしゃると仰ってましたよね? 兄として料理作るとかしないんですか?」
「たまには作るよ。妹もたまに作る。大体、家の従者が作ってくれることが多いけど」
「従者ってことは、本職のメイドさんですか。ふーん……」

 自ずと視線が冷たいそれになってることが自分でも気がつく。

「それでは将来困るだろって話もあって、今ちょうど一人暮らしを始めたばかりなんだけどな」
「で、めんどくさくなってやっぱりあたしに料理をおねだりしに来たと」
「違うよ。これも料理の勉強の一つだって。せっかくの縁だし、楓さんから教わった方が早いかと」
「でもあたしも簡単な料理しかしないし、全然勉強にならなかったことが御不満なんですよね?」
「誰も不満があるなんて一言も言ってないよね!?」

 そんなことならもう少し腕を奮ってちゃんとした料理をするべきだったと思わないことはない。だけど今は大切なデビューイベント直前だ。そんな余裕があるわけないからこれで許してほしいと思うわけ。不満があるのはどちらかというと嶋田さんの方じゃなくて、あたし自身に対してだったりするけど。
 ……いや待って。なんであたしが進んで料理すること前提なんだ?

「そういえば楓さんにも兄がいるって聞いたけど、楓さんの兄さんは料理したりするの?」
「しますよ。今だって学生寮で同級生と当番制で料理作ってるって聞いたし」
「ああ。確か『虹色ゴシップ』の緑川さんと一緒に暮らしてるんだっけ?」
「なんで貴方がそれを知ってるの!??」

 嶋田さんは思わず口に出してしまった言葉だったのか、おっといけないみたいな顔をしてみせる。当然それには不信感しか覚えなかったけど、そういえばこいつは例の通信会社の御曹司様なわけで、緑川学園の学園長ともどこかで繋がってるのかもしれない。セレブの付き合いってやつ?

「碧海嬢とは小さい頃からの付き合いでね。昔はよく一緒に遊んでたはずなんだけどな」
「最近は、避けられてるんですか?」
「というより何を考えているのかさっぱりわからなくなってしまったって具合かな」
「つまり思いっきり避けられてますよね?」

 どちらかというと面白いものに興味を示す緑川さんは、むしろこういうめんどくさそうな人は純粋に苦手なのかもしれない。まぁ二人の思わぬ接点を聞いてしまったわけだけど、個人的にはあまり近寄りたくない世界観だ。

「話を戻すけど、お兄さんと楓さんが二人一緒にいるときは、どちらが料理を作るの?」
「え。うーん……」

 というより何故嶋田さんはそこまで兄の話をしたがるのだろう。

「母?」
「あ、そっか。そりゃそうだよね」
「あたしと兄が二人だけでいることなんてあり得なかったから」

 これは事実。お互いに嫌い合ってたわけではないと思う。だけど兄との間には僅かな距離があって、今でも全く埋まりそうもない。言葉にしてしまうと気まずいと言うべきか、それ以上のものがある。

 兄と二人だけでいる時間を、あたしは極力避けていたから。

「でも、そこまで楓さんがお兄さんを避ける必要なんてないんじゃないかな?」
「別に……兄を嫌ってるわけではない……ですけど?」

 嫌いなのではなくて、同時に同じ場所に存在してはいけないだけ。感情よりも感性の問題。

「そんなの楓さんの顔見てればわかるよ。だって楓さんにとって命の恩人で、いつも楓さんの活動を応援してくれてる。それを無下にするほど君は悪い人ではないでしょ?」
「勝手なこと言わないで。あたしはそんな良い人間でもない!」

 そんなことわかってる。兄はあたしに優しくしてくれる。こんなできそこないの義妹であっても。

「だってあたしは、そんな兄を殺そうとしてるのよ?」

 それができないなら、あたしが消えるしかない。

「だけど今はそうする必要もなくなってきてるよね?」
「何言ってるの?? そんなことどうしたらまかり通るのかなんて……」
「だって君は……」

 まただ。嶋田さんはいつもあたしを否定する。あたしのことなんてどうせ何もわかるはずないのに。

「君は、お兄さんに素直に甘えたいから、今こうして歌ってるんじゃないのかな?」

 え。……だけどその打算な感情を打ち消すように、ただ時間が止まっただけのように思えた。

「テセラムーンとして歌っているのも、虹色ゴシップのメンバーとして空高く舞い上がろうとしているのも、そんな自分を変えてみたいから。敷いては本当はお兄さんと一緒にいたいからなんじゃないかなって」
「…………」
「僕はまだ大樹君とは会ったことないんだ。でも楓さんの話を聞いてる限り、きっと本当に素晴らしいお兄さんなんだろうなって素直に思う」
「やめて。なんであたしの話を聞いてそんな風に……」
「正直大樹君の方が凄いと思う。僕にも妹はいるけど、大樹君が楓さんにそうしたように、そこまで優しくできたかと聞かれると、あまり自信ない」
「だからやめてって……」
「だけどそういうことなんじゃないかな。二人の距離感が複雑に絡み合った絆で結んでいたからではって。楓さんは『殺すつもり』って言ってるけど、結局兄を殺すことなんて絶対にできっこないでしょ? それが例え偽りの、義兄だったとしてもね」
「だからってなんで……」

 あたしと兄をそんな仲の良い兄妹みたいに言うの? あたしは兄を、ずっと生まれた頃から……。

「僕はね。僕が何もできなかった大樹君のことを本当に羨ましいって思ってるし、そんな大樹君が楓さんとずっと永遠に仲良い兄妹でいてくれることを望んでいるんだ」

 だけどここで言葉に詰まってしまう。
 嶋田さんの話の主語があたしではなく、兄に移動していたことに気づいてしまったから。

「ひょっとして嶋田さん……?」
「だから大樹君を殺したいなんて、もう二度と言わないでほしいな」
「…………」
「これは僕からのお願い。……いいかな?」

 どこか懐かしい笑顔を示す嶋田さんの顔は、あたしの頭を思考停止に追い込んだ。
 義兄に嶋田さん。……確かに顔も瓜二つなのだけど、理由がわかってしまうとさらに解釈が難しくなる。義兄に対する大好きと大嫌いという想いの狭間に、目の前にいる嶋田さんも巻き込まれていく。

 好き……? あたしは義兄のことをそんな風に考えたことがあったのだろうか。
 ずっと言葉として具現化できなかった感情を、嶋田さんというずる賢い眼鏡を使って創り出してしまっただけかもしれなくて。……ううん。そうじゃない。そもそもあたしは好きとか嫌いとかを全部通り越して、『殺す』という感情を使って逃げていただけ。

 でももしその感情からも逃げなければいけなくなったとき、あたしは前に進むしかなくなる。
 そしたら今度こそ義兄に対して、こんな言葉を言えるんじゃないかって。

「ありがとう。大好きです」

 ……あたしは気がつくとこの言葉を、嶋田さんの前で口走っていたんだ。

 嶋田さんは特に驚いた様子もなく、小さく頷きながらあたしのその言葉を受け止めてくれている。
 酢豚の酸味が、口の中をちくちく刺してくる。温かい痛みが、あたしの胸をすっと落としていた。