「長谷く〜ん、ちょっとここで写真撮ってよ?」
「ここでか!??」
俺達は小町通りでお昼ご飯を食べた後、鶴岡八幡宮にいた。鎌倉市街の中心部とあってか、午前中の円覚寺と比べるとかなり人出が多い。班のメンバーもご飯食べた直後というのもあるのか、ぽかぽか陽気から来る眠気に負けることなく、境内をぶらぶら走り回っている。
今俺に写真をお願いしてきた広岡も例外ではない。が、その場所ってのがこれまたちょっと。
「あたしお酒大好きなんだよねぇ〜。ほらあの樽、見てるだけでわくわくしてこない?」
「しない。ってゆうかお前も俺と同じ高校生だよな? なんで酒樽の前???」
「え〜? 長谷くんだって神社の子ならお酒くらい飲むでしょ?」
「飲まないから!! つかうちみたいな小さな神社に酒が奉納されることなんて滅多にないからな」
そういう問題でもない。自分で言ってても頭がおかしくなってきそうになるが、神社の子供だったら当たり前のように酒を飲んでるみたいな話はこの令和という時代において一ミリだって存在しないはずだ。当たり前のようにはな、うん。
「そんなこと言って実はユイナちゃんにお酒飲ませてあれこれしてみたいんじゃないの?」
「ないわ! つかあいつにお酒飲ませたら大変なことになってそれどころじゃねーし」
「待って長谷くん。あたし今なんか聞いちゃいけない話を聞いてしまった気がするんだけど??」
「…………」
言わせたのは広岡じゃねーか!! というのはさておき、事実雨田にお酒を飲ませたらどうなるかくらいのことは知っていた。それは去年の暮れのこと。町内会でうちの神社のしめ飾りをした後、手伝って頂いた方々と神社に併設されている自治会館で忘年会をしていた時のことだ。雨田にも手伝ってもらったので慰労を兼ねてその場にいてもらったわけだけど、雨田は水のグラスと間違えてお酒を飲んでしまうという場面があった。慌てて俺と妹の美来で介抱をしたわけだが、時は既に遅く、雨田は日頃の鬱憤を晴らすかのように俺に対してめっちゃ絡んできた。散々俺に対する愚痴を曰わった挙げ句、後日雨田にその話を振ってみたも全く覚えてないの一点張り。なお、この日の話は俺と美来との間で黒歴史として密かに語り継がれている。
「いいじゃん。酔った勢いでそこの舞殿で踊ってもらうの。間違えなくユイナちゃん可愛いよ?」
「それ絶対に神様に失礼なやつだから!!」
雨田はともかくそれはそれ。ただ、もしくはあいつだったら……。一年生ながら女子バスケ部のエースと呼ばれる程度には運動神経がいいあいつなら。それに正装姿はきっと。
「ねぇ、ちょっと。長谷くん?」
「ん? どうした?」
「今、誰か思い浮かべてる人がいるでしょ?」
「いや、まぁ……そうだな」
「ふーん、そうなんだー」
「…………」
っと、ノーコメント。だが広岡は俺の微細な顔色の変化を、逐一伺ってることには気づいていた。
「ま、これ以上尋問するのはマナー違反ってやつか」
俺の緊張の糸はややほぐれたものの、ただしそれとは別の未解決の課題を思い返してしまう。
俺はやはりあいつのことが好きだ。それ以上の霞のような暗幕が、あいつと俺の間を遮断してくる。不整合、不一致、不順。完全に引き裂かれてつつある俺達二人は、本当にどうして……。
そういえば確かこの舞殿も、源義経と静御前の話で有名だったよな。
「あ、二人ともこんなとこにいた。何話してたの?」
「ユイナちゃんナイスタイミング! 長谷くんがこの舞殿で踊るユイナちゃんのことを想像しててね」
「してねーだろそんな話」
雨田は俺と広岡にちょろちょろと近寄ってきたかと思えば、広岡の一言により一瞬にして後ろに一歩引いてしまう。完全に冤罪の俺にその冷たい視線を向けてくるのはとりあえずやめてくれ。
「そっか。あんたの家は神社だもんね。だからそういうはしたない想像のひとつやふたつ……」
「おいこら待て。一体何がどうはしたないんだ?」
どこか冷静さを取り戻したかのように雨田はぼそりと溢すが、それはそれで言い方が失礼だろう。
「そういえば長谷くんちには舞殿みたいなものってないの?」
「うちはそんな大きな神社じゃねーよ。小さな商店街のただの氏神様みたいな神社だぞ」
「うん。神社と言うよりちっちゃな公園みたいな感じだからこんな大きな建物はないよね」
「ちっちゃな公園って。お前なぁ……」
雨田がうちの神社をどういう目で見ているのかわかった気がする。が、それはある意味では理に適っているとも思った。美来の言う通り、氏神様は地域の安全と平和を見守っている存在であって、雨田にとっては小さな頃からそんな氏神様に温かく護ってもらっている場所でもある。距離の近い、確かな存在なのだ。
「なんだ。あの美来ちゃんが踊ってる姿もなかなかの絵になると思ったのに」
「というよりその広岡のおっさんみたいな発想はどこから来るんだ?」
ちなみに美来は巷で公開されている巫女神楽という舞を一通り踊れたりする。美来曰く『神社の娘ならそんなのただの嗜みでしょ』とのこと。もっともうちの神社に伝わる神楽舞なんて存在しないわけで、『だったらこっそりあたしが創作しちゃえばいいじゃん』というのが美来の持論だ。どうせあいつのことだからどこかから古びた紙を見つけてきて、そこに書道初段の腕前で舞い方を書き記し、こっそり戸棚のどこかに隠しておくつもりだろう。いや実はもう既にどこかに隠されていて、『こんなの出てきたんだけど』といつでも嘘を宣う準備はできているのかもしれない。
「てゆうか、広岡はうちの神社に来たことはなくても、美来には会ったことあるのか?」
「うん。先日の入学説明会の時に、学校で迷子になってたから道案内しただけだけどね。ついでにいろいろあれこれ話ししてたら『ひょっとして兄のクラスメイトさんですか?』って聞かれて。ああ、この子が噂の可愛い長谷くんの妹さんかって」
「お、おう。……それは、いろいろありがとな」
絶対に嘘だ。美来がうちの学校程度で迷子になるはずがない。あいつは一度校内地図を見ればお得意の空間把握でどこに何があるかを一瞬で記憶できるはず。それより直前に雨田と一緒に話しているのを見かけた広岡を捕まえ、俺の学校での様子の探りを入れに来たに違いない。あいつのブラコンから来る行動はたまに突拍子のないものへと変化してしまうから。
「……まぁでもあんな子が義理の妹だなんて言われたら、ユイナちゃんがこうなるのも当然かって」
「え。わたし? 美来ちゃんがどうしたって??」
「例えばそうだなぁ〜……。だったらこの舞殿で誰かのことを想って踊ることを想像してみて?」
「う、うん」
「絶対に『そんなの無理だ』って思えるでしょ?」
「……そんなの無理だ」
広岡の誘導により、雨田はあっさりと自爆した。俺も思わずけらけら笑わざるを得なくなる。
「ちょっ! 笑いすぎ!!」
「だってお前……」
「いいもん。わたしは踊れるか踊れないか以前に、そういう人を見つけるとこからだもん」
一瞬こそ俺に反発するも、雨田は小さな子供のように完全に拗ねてしまった。
「そこだけは時間の問題だと思うけどなぁ〜」
「なによそれ……」
そう言葉を交わす二人を横目に、俺は再びあいつの姿を思い浮かべていた。抜群の運動センスで美しく舞い、ただ少しずつではあるけど、何かが絡み合うようにずれていく。
「やっぱしさっきからユイナちゃんではない人のこと考えてるでしょ」
「え……?」
ふと油断していた俺は、広岡の小さな声ではっと次元を今の時間へと戻されていた。
鶴岡八幡宮、舞殿。時は鎌倉時代が始まる少し前のこと。源頼朝によって鎌倉に連れてこられた静御前は、想い人である源義経を慕う舞をこの場所で踊ってみせたらしい。その時の頼朝と義経は兄弟でありながらも敵と味方。言うまでもなく、頼朝は激怒したらしいけど。
「そんなに神楽舞が似合わなそうな子なの? 君の想い人ってのは」
「いや。あいつはどこか不器用だし、やっぱし上手くは踊れないんだろうなって」
「なるほど。お互い不器用なんだね、君たちは」
広岡の相槌に、なぜか俺までもが当然のように含まれてしまっていた。だけど俺はそのまま、否定することはできなかった。その通りだと思えるほどに、あいつと俺の時間は良からぬ方向へと動いてしまっているから。
もしも仮に俺とあいつがそういう境遇になって、あいつはこの場所で美しく神楽舞を舞うことができるだろうか。多分だけどあいつのことだから、俺のことを一生懸命必死に想おうと考えるだろう。涙さえ必死に堪え、それでも顔色は美しくあり続けることを思い、足取りも間違えなく華やかに。
だけど問題は、そこではない。
「……あいつが上手く踊れない理由は、間違えなく俺のせいなんだ」
「そうなの?」
俺は頷くこともせず、呆然と地面を見つめる。
「そもそも俺に、こんなことは許されなかったんだ。自分さえまともに見つけられない俺に、他の誰かを笑顔にするなんて、到底できっこない話だったんだ」
もしかしたら美来が自分の家にやってきた日から、もしくはもう少し前、俺が小学校受験に失敗した時から始まっているのかもしれない。俺は美来の未来を奪ってしまい、俺のせいで俺の家に連れてこられてしまった。俺の母親が家を出ていき、何もなかったはずの家に美来が現れた。美来には許嫁がいたって話さえ聞いたことがある。それさえも俺は奪ってしまい、俺は美来を縛ってしまったのだ。
それがどうして、自分が幸せになる未来を許されるというのだろう。他人の未来を奪っておいて、俺が幸せになるとか、そんなのありえないだろ。虫がいいにもほどがある。
「だから当然なんだろうな。俺があいつを笑顔にすることができないのも」
俺とあいつは確かに両想いだった。俺が学校の屋上に一人でいると、何故かあいつも同じように屋上に一人でいて、やがて二人で並んで話すようになった。
あいつが俺に告白してきたのは、去年の冬の曇り空の日だった。すっかり年の暮れで、中学という校舎にいる全員が走り回っていた頃のように思える、そんな季節の話だ。場所はやはり屋上で。
「お互い似た者同士で、話はちゃんとできるのに……」
言葉にすると、共依存というやつなのかもしれない。そんなシンプルな言葉で片付いてしまうほど、原因は明確で、だけど複雑なほどに厄介だった。
「……ちゃんと互いに話はできるはずなのに、俺とあいつは喧嘩をしたこともない。本音を互いに見せようともしない」
どうしてかって、その理由さえも極めてシンプルなものだ。
「今のこの時間が壊れることを恐れるばかりに、本当の笑顔ってやつを忘れてしまったんだろうな」
そう言って俺は広岡に笑みを溢す。当然作り笑いというやつで、心の底から笑ってないやつ。こんなの見せられたところで、広岡は不気味に思うだけだろう。
「だから、俺とあいつは……」
「そんなの、あんた一人で抱え込んでたって意味ないじゃん!!」
えっ……と思い、突然の怒鳴り声の方に顔を向けると、どういうわけか顔を真っ赤にさせていた雨田の顔がそこにあった。それは怒ってるようで、泣いてるようで。なんでお前がそんな顔をしてるのかって聞きたくもなったけど、そうする勇気さえ俺にはもう残っていなかった。
「だってそんなの、一人で背負い込むもんじゃないでしょ」
雨田の円な瞳は真っ直ぐに、今にも溢れ出しそうな涙を堪えているようにも見えた。どうして俺は女子に対してこんな顔ばかりさせてしまうのだろう。本当に最低だ。
「そんなの……シ……その子が……可愛そうじゃん……」
雨田の声さえも途切れ途切れになり、きゅるきゅると音を立てたカセットテープが末端まで近づいてきたようにも思えてきて。
「……ううん、違うよね。その子が可哀想なんじゃなくてさ、その子もバカなんだよきっと」
終いにはどういうわけか、俺の彼女をディスりだしたんですけどこれは一体??
「なるほど。そういうことか」
「何がそういうことなんだよ……」
広岡さえも謎の相槌を打つが、誰のせいだろうか。気がつくとさっきまでの俺の自己嫌悪もどこかへ吹っ飛んでいることに気がつく。
「あんたはとっととその複雑な関係を解消してこいって言ってるのよ。じゃないと……」
広岡はそう言いかけて、雨田の方を一瞥する。そこにはぐしゃぐしゃな雨田の顔があって。
「てかなんでお前がそんな顔してるんだよ!?」
「だって…………わたしの友人も似たようなこと話してたから思わず同情しちゃって?」
「同情しなくていいから頼むから!!」
なぜか小っ恥ずかしい。もっとも雨田にこんな話を聞かれてる時点で詰みだったのかもしれないが。
「おーい、班長〜。そろそろ次の場所に行くぞ〜」
そもそも俺らはどれくらいの時間をこの場所に立ち止まっていたのだろう。少し離れたところで、先を行こうとする友成に、俺達三人は声をかけられた。というより円覚寺の時から班の一番後ろばかりを歩いてる気がするのは気のせいだろうか。
いや、きっと気のせいではない。俺はずっと後ろ向きに歩いてきているのは間違えないのだろう。小学校受験を失敗したあの日から、美来を俺の家に縛ってしまったあの時から、ずっと前を歩こうにもその歩き方さえわからずに、ただ誰かの後ろをついていくだけ。俺が班長だ? 風紀委員の副委員長だ? 『神童の神業』って何のことだよ? 誰のことを言ってるのかわからずに、ただ時間に流されているだけ。それが俺。
だから、あいつを悲しませているのはその報いというもの。あいつは悪くない。悪いのは俺だ。
あいつには謝らなくてはならない。それで許されるかわからないけど、もうそれしかないのだから。