あたしは春から『虹色ゴシップ』というアイドルグループで活動を始めている。毎週金曜の夕方はメンバーが事務所に集まり、動画の生配信を行うことになっていた。
今日の配信も無事終了……と呼べるのだろうか。ペンネーム『タイジュ』を名乗る人物のメッセージが、今日もあたしを弄り倒しに来た。『パンタのような死んだ目が素敵です』とか『暑くなりましたが体調管理に気をつけてください』とか。毎度その度に虹色ゴシップの他のメンバーにも弄られ、ストレスばかりが積もってくる。……そう、これはストレスだ。
そんな生配信が終わって帰路につこうとしたところ、黒髪の美少女が事務所の出入口に立っていたんだ。
「なによ。待ち伏せとは貴女も随分悪趣味なことをするわね」
スタイル抜群のプロポーションは、生粋のアイドルならではのオーラを漂わせる。元々は声優として活動してたらしく、彼女自身のファンクラブが既に存在するとかしないとか。
「たまにはいいじゃない。カエちゃんと話をしてみたかったんだから」
女子高生アイドル声優という華々しい肩書を持つこの美少女は、指折りの進学校でもある緑川学園の、その学園長の娘。怖いもの知らずとも言えるぶっ飛んだ性格のせいで全然そうは見えないけど、正真正銘のお嬢様であることに違いはない。
「別に貴女と話すことなんか……」
「そんなこと言っていいのかな〜? カエちゃんのお兄ちゃんの近況、聞きたいんじゃないの?」
「そもそも貴女にカエちゃん呼ばわりされる筋合いないわよ」
「そしたら、パンダちゃんの方がよかった?」
「な!? いいわけないでしょそんなの!!」
「別にいいじゃない。一緒にアイドルグループしてるんだからそれくらいのあだ名を許してくれたってさ」
彼女の名前は緑川碧海。緑川学園高等部の一年生で、今は高校の寮で暮らしているらしい。
が、その寮生活とやらがまたおかしな話になってるらしい。学園長の娘で、且つ現役女子高生アイドルが住んでる寮というくらいなのだから、さぞ華々しい女子寮なのかと思いきや、実は男子寮で暮らしてるらしいとか。しかも同じ部屋で同居してるのがあたしの兄だというのだ。随分面倒なことをしてくれている。
「あ、そしたら私は先に帰ってるね」
「ちょっ……」
あたしの背後には現在絶賛同居中の月香がいた。先に帰ろうとする月香の服の裾を、慌てて右手の親指と人差し指で軽く引っ張る。すると月香は何も言わずに足を止めてくれた。これだけでしっかり伝わるのは、月香の便利なところだ。
「いいよ、わたしは別に三人でも」
「うん。私も碧海さんと話してみたかったんだよね。声優業ってどこか新鮮な気もするし」
それは黒峰洋花という大女優様が声優というお仕事をしてこなかっただけでしょ!
とツッコむのを我慢して、碧海さんのいる手前、それを口に出すのはやめておくことにしたんだ。
あたしたち三人は、駅から少し離れた場所にあるファミレスに入った。それにしてもこの三人で人通りの多い駅前の商店街を歩くというのも、どこか妙な気分だ。なぜなら三人ともそれらしい変装を全くしていない。もっともそれなりに売れている碧海さんでさえ、声をかけてくるとしたらよほどのアニオタな男子諸君程度だろうし、デビュー前のアイドルなんて所詮そんなものなのかもしれないけど。
ただし、月香さえも変装を一切していないのはやはり違和感しかない。彼女が黒峰洋花と名乗ってた頃にはまずありえない話だ。恐らく彼女はそれ自体をただ楽しんでいるのだろうけど。
ここで一つ疑問が浮かぶ。碧海さんは黒峰洋花という女優のことを何も覚えていないのだろうか。
「ねぇ。わたしって虹色ゴシップで知り合うより前に、どこかで月香ちゃんと会ったことないかな〜?」
が、その疑問はドリンクバーのメロンソーダを一気に飲み干した碧海さんの質問によって、見事に払拭された。なるほど。人の記憶というものは余程都合がよい程度に曖昧なものらしい。
「多分スタジオですれ違ったくらいだと思うよ? 私も少しだけタレント業をやってた頃があるし」
「あ、やっぱしそっか。月香ちゃんめっちゃ美人さんだもんね〜」
……そもそもあれを少しだけのタレント業とか、そんな簡単な言葉で片付けるつもりなの?
「昔はいろんなことやったかな〜。地味なイベントのパーソナリティーとか、こんなの誰が観るんだろうって時間帯のドラマの端役とかね」
「へぇ〜。結構いろいろやってたんだね」
貴女、ファンなら絶対見逃してはいけない音楽番組のパーソナリティーとか、日本中を熱狂の渦に巻き込んだテレビドラマの主役とか、普通にいろいろ出まくってたわよね!??
……と横から刺してやりたい気持ちを必死に堪える。月香もそんなあたしを察してるのか、横顔でちらちら確認してくる。けど既にその横目もとっくにバレてるし、必要なくない?
「でも何やってもちっとも楽しくなかったんだよね」
「そうなの? それだけいろんなことしてたら楽しくて仕方ないように思えるけど」
「ううん。そんなことない。だって観てる人がみんなありえない反応するんだよ?」
「ありえない反応?」
「ここにいるはずの私のことを、みんな別人の私として認識するの。私が右を向くと左を向いたって言うし、前を向くと後ろを向いたって言うんだ。本当におかしな感覚で、頭が狂っちゃいそうなくらいにね」
彼女の表現はとても抽象的で、だけど小さく零す笑みのせいで話に説得力が宿っていた。
「本当の私を誰も観てはくれない。だから私は芸能界をやめたんだ」
貴女がやめたのは芸能界じゃなくて人生そのものでしょ?というツッコミも無きにしもあらずだ。
ただ黒峰洋花というかつてのクラスメートを知るあたしは、なんとなく言いたいことも理解できた。何もかも吸い込んでしまう絶大な引力を持っていた黒峰洋花は、学校の教室の片隅にいた黒峰洋花とは明らかに別人であったから。恐らくそれは、上郷君も同じ印象を持ってるはず。
もしかするとその力が暴走して、あたしたちを巻き込んだ異世界転生事故を引き起こしたのかもしれない。
「でもそれわかるかも。実はわたしの同居人で最近妹がタレント活動始めた人がいるんだけどね」
「ぶほっ……」
「どうしたのカエちゃん? 何かあった??」
「何もないわよ!!」
唐突な碧海さんの切り返しに、あたしはちびちび飲んでいたアイスコーヒーを少し吹き出してしまう。
「最初は妹ちゃんがタレント活動してるのを複雑な顔で見てたんだ。いつも首を傾げてたっていうか、何となくだけど自分が知ってる妹ちゃんとは別の人を見てたんじゃないかなって」
「へぇ〜……」
そんな風に相槌を打つ月香であるけど、やはりあたしを横目でちらちら伺ってきている。……なに? あたしの顔に何かついてるとでも言いたいの?
「そしたらお兄さん、わたしたちのチャンネルにメッセージを送ってくるようになったの」
「あ、それ知ってる。例のタイジュくんからのメッセージでしょ?」
「そうそれ! わたしも最初はそれが誰なのかわからなかったけどね。あ、これ、お兄さんからだって」
「てゆか毎回妹ちゃんを弄り倒すあのメッセージ、本当に微笑ましいもんね〜」
「しかも妹ちゃんのあの素の反応! ツンデレキャラもここまで来ると面白すぎでしょ」
「だからその妹がここで聞き耳立ててるって気づいてて、わざと話し続けてるわよね二人とも!!」
あたしの兄の名前は深澤大樹。名前の読みは『タイキ』だけど、それは『タイジュ』と読めないこともない。そんな読み間違えを利用したペンネームは、兄を知ってる人なら容易にその人物を特定できてしまう。しかも彼から届くメッセージはおよそあたし個人に対する弄りだ。とんでもない兄である。
兄と同居中の碧海さん、兄とかつてのクラスメートだった月香。当然あたしと兄の関係もよく存じあげてるようで、本当に迷惑なこと極まりない。
「だけどさ。なんだかんだお兄ちゃんいつも妹ちゃんを気にかけてるし、真の愛を感じるんだよね〜」
「どんなに弄り倒しても絶対最後は体調を気にかける言葉を入れてくる辺りが憎いよね」
「そうそれ。わたしもお兄ちゃんのメッセージを読む時あるけど、読んでるこっちが恥ずかしくなるの」
「ねぇ今度さ。妹ちゃんにそのメッセージを読ませてみたら? 生配信で兄妹愛を叫ぶ!的な」
「いいねそれ! 今度ハルちゃんにも相談してみるよ」
「お願いだから絶対にやめて!!!」
あたしは馬鹿だ。碧海さんと月香をファミレスで同席させたのは間違えだった。あの時あのまま月香を先に帰らせておくべきだった。
「……でもカエちゃん。高校に入学してから、一度もお兄ちゃんと会ってないんでしょ?」
「え?」
そんな碧海さんから唐突に振り下ろされた鋭い鎌は、躱すことさえやっとだった。
「少し余計なことかもしれないけど、いつまでも二人の時間を止めたままでいいの?」
「あたしと、兄の時間……?」
これまでそんなこと、不思議なくらい考えたこともなかった。ずっと共有だけされていて絶対に交わることがなかった二つの時間軸は、これからも永遠にそのままであるという答えを導き出していたから。兄は兄で、あたしはあたし。ずっと変わらないなら、それでいいんじゃないかって。
……いやでも、そんなの考えたことなくて当然か。
そもそも兄かあたしか、どちらかの時間を止めることしか本来赦されていないのだから。