暦も六月に入り、だけど天気はまだ雨がたまに降るくらいで、梅雨入りしたという話も聞いてない。
月香は『最近雨降らないね』とご機嫌斜めだった。どうしてそれが不機嫌になる理由なのかと僕も頭を捻るしかないけど、そんな曇り空の帰り道に甘くない災難が降り注いだんだ。
今日もいつもどおり月香と帰宅するつもりが、校門を出たタイミングで陽川に呼び止められたんだ。
「ごめんね。前から上郷君とは話がしたいと思ってたのだけど……」
「ああ、月香のことですね。あいつ常にあんな感じなんで、気にしないでください」
突然『二人きりで話がしたい』と切り出してきたものだから、当然横にいた月香が黙ってなかったわけで。
「でも前から気になってたのだけど、上郷君と津山さんって付き合ってるの?」
「ないです。あいつが勝手に付きまとってるだけで」
「付きまとってる……?」
陽川はやや納得の行かない表情を浮かべたが、本当にそれしか答えようがないのだからどうしようもない。さっきだって陽川に連れ去られる僕の背中に『なにそれ不倫じゃん! この裏切り者〜!!』とそんな言葉を投げ捨てていたけど、諸々鑑みて、月香は不倫という言葉の意味を理解してるのだろうか。
ちなみに僕の軟禁先、もとい、陽川に連れ去られた場所というのは、横浜駅近くのビルの最上階にあるいかにもな高級レストランだった。陽川曰く、『ここなら邪魔者も絶対入ってこれないから』という理由らしいけど、明らかに高校生の男女二人で来る店ではない。そういえば陽川って事務所社長の一人娘だったな。
「本当はもう少し前に二人で話をしたかったのだけど、上郷君いつも津山さんと一緒だから」
「すみません、あいつ本当に僕から離れようとしなくて、少し困ってるんです」
「でもあんな可愛い子、上郷君は悪い気はしないんじゃないの?」
「まぁ悪い気はしないのですけど……」
どっちかというと、月香の性格の方にドン引きしてる。顔は確かに悪くないのだけどな。
「あの、それより僕にお話というのは?」
「あ、うん。それね。実は上郷くんに相談があって……」
ただ相談内容というのは大方想像ついていた。一応確認の意味も込めて、僕は陽川に尋ねたんだ。
「津山さんを芸能界でデビューさせたい……と言ったら、上郷君は協力してくれるかな?」
やっぱりか。だけどそれって……。
そもそも周囲から見て僕は、月香のなんだと思われてるんだろうね、本当に。
「それなら月香本人にはっきりそう話したらいいのでは?」
「私もそうしたいのだけど、津山さん即答で断りそうな雰囲気があるじゃない?」
「間違えなくそうですね。都合の悪い話は簡単にはぐらかせて、気づくと別の話にすり替えられてるとか」
「そうなの。だから上郷君にまず相談してみようと……」
嫌です! めんどくさいことになるのは目に見えてるし。
とはっきり答えられれば簡単なのだが、陽川はバイトでお世話になってる芸能事務所社長の一人娘だ。協力できることがあるならむしろしたいくらいだけど、ただなんとなくそれは僕の気持ちとは反していたんだ。
「あいつ……月香は、そもそも芸能界をやりたがらないと思う」
ただし、僕がそう思う理由を言葉にしようとしても、うまく当てはまる言葉が出てこない。
「……うん。私もそう思ってる。口ではうまく説明しにくいのだけどね」
「え。陽川さんもそれを感じてたんですか?」
「きっと私だけじゃない。恐らく隼斗もね。だけど私も隼斗もなんとなく口にはできないんだ」
隼斗も陽川も、なんとなく……? そういえば僕がバイトを頼んだ時、月香も一緒ならと条件を出してきたのは隼斗だった。隼斗とは小学生の頃からの付き合いだけど、その時はらしくないこと言うなって思っていはいたんだ。いつもなら『ああいいよ』くらいの勢いで、月香とか関係なく僕がバイトすることも快諾してくれるものだと思ってたから。
だけど隼斗は珍しく僕に条件を出してきて、それが月香だったと。
「つまり、隼斗も月香を芸能界に入れたいと……?」
「じゃないとあんなめんどくさそうな子を誘わないでしょ。顔は抜群で、恐らくセンスもある。だけどそもそも津山さんって、隼斗が一番苦手そうなタイプよね」
「僕が言うのもなんですが、どこがどう苦手なんでしょうね!?」
口下手な隼斗のことだ。月香みたいな強引に割って入ってくる女子、間違えなく苦手なタイプだろう。
「だけど私と隼斗は幼い頃から芸能界にいる。だからかな。津山さんはなんとなくこっち側の人間なのかなって、そう思っちゃうのよ」
「こっち側の人間……?」
つまりそれは、芸能界って意味か。
「でも、あいつが芸能界にいたなんて話、聞いたことないですよ?」
「私もね、もし津山さんが芸能界にいたなら、同じ年のタレントとして顔を知ってた可能性が高いと思うの。だけど私も隼斗も、津山月香というタレントを知らない。だからそんな証拠、どこにもないのよね」
僕も陽川と同じ認識だ。もしかしたら月香が売れないタレントで、僕らが知らなかっただけかもしれない。だけどそうだとすると……いや、考え過ぎかもしれないけど、腑に落ちない部分も確かにある。
「でも、それらしいことを津山さんが言ってたのも確かよ」
「春日瑠海のことですか?」
陽川ははっきりイエスと頷く。僕が気になっていたのも、その辺りの話だ。
春日瑠海は僕らと同世代で国民的子役と言われている。そんな雲の上の人が、本当に月香と仲が良かったのだろうか。ところがそう言われたところで、違和感がないのが月香の恐ろしいところだ。
けど本当の違和感はきっとそこではない。問題は違和感がなさすぎる点なんだ。
「実はその春日さんと碧ちゃんは同じ事務所なの。だけど碧ちゃんも、津山さんのことを知ってる様子はなかった。そしたら春日さんと津山さんはどこに接点があったの? 碧ちゃんが言うには春日さんは仕事が忙しすぎて、学校にいられる時間もかなり限られてたみたいなんだけど」
「僕は春日瑠海と月香がクラスメイトだったという話ははっきり嘘だと思ってます。あいつ、僕のクラスでも本当に浮いた存在で、だから学校で本当に仲良くなれる友人ができるとか、あまり想像できなくて」
月香はある時、自分を『太陽に照らされる月』だと言っていたことがある。もしも春日瑠海がまばゆいばかりの光を放つ存在だと言うなら、月香はその光を受ける存在だという意味なのかもしれない。
でもそうには見えないんだ。なぜならあいつ自身が常に真っ白なオーラを身に纏っているから。
その強く眩すぎる光のせいで今そこにあるはずの月香の顔が、すっぽり隠れてしまう程度には。
……ああ、そうか。つまりあいつは、箱の中の猫なんだ。
「ねぇ。上郷君は津山さんと付き合ってないって言ってたよね。それ、彼女のことが嫌いってこと?」
「い、いや。別にそういうわけでは……」
突然何を聞いてくるのか。すぐには答えられず、淡々と答えるしかない。もし彼女が困ってるなら、彼女を救いたい程度には思ってる。でもあいつの場合、僕は手を焼かされるばかりなんだけどな。
「それならもし津山さんが本気で『付き合ってください』って言ってきたら、上郷君はどうするの?」
「は……?」
いやだから僕の頭は今、混迷の渦の中にいる。だからそんな質問、処理できるわけなくて。
「そういう、陽川さんはどうなんですか? 隼斗と」
「え……?」
……とても処理できそうもないので、ここは月香に習って話をはぐらかせてみる。
陽川は『本当になんのこと?』みたいな顔をしているが、これがなかなかに憎い。本当にその文字通りの反応だからだ。僕だって隼斗とは小学校からの付き合いだ。だから隼斗が陽川に気があることくらいはそれなりに気づいてるつもりだった。だけどこの顔、完全に脈なしってやつだよな。
「別に今の質問は忘れてください。えっと、月香を芸能界に入れたいって話でしたっけ?」
「ああ、うん。難しいかもしれないけど、上郷君ならなんとかしてくれるかなって期待を込めて」
「下手に期待しても何も出てこないと思いますよ。あいつ、僕の手にも負えないので」
「ありがと。じゃあ、これ渡しておくね。受け取ってもらえなかったらどうしようかと思ってたのよ」
「は!??」
だからと何かを受け取るとは一ミリも言ってない。まるでどこぞの悪い政治家の賄賂のようなそれは、福沢諭吉の描かれた札束ではなく、いやそれに近い類の何かであることに間違えはないけど。
「これ、この店のペアチケット。母さんから二セット分を預かってたの。私じゃ一緒に行く人いないしね」
「というよりそれを隼斗と使おうとは思わなかったのですか!?」
「隼斗とは今いろいろ気まずくてね。いつかはちゃんと恩返ししたいと思ってるんだけど」
「いや僕なんかでなく、あいつのために使ってあげてください!!」
「でもその隼斗がこれを『上郷と津山に使ってもらえ』って言ってたのよ?」
「おいっ!!」
隼斗と陽川が気まずい関係ってのはこのやり取りでよくわかった。よく考えたら隼斗と陽川もひとつ屋根の下、一緒に暮らしているんだよな。僕らと違う点は二人は幼い頃から一緒にいて、それだけの長い時間が複雑な想いを互いに積もらせているのかもしれない。
というより、このチケットで僕はどうしろというのだ? 女子とデートなんて経験、一ミリもない僕がそもそも誘うことなんてできるのだろうか。しかも相手はあの月香だぞ?
まぁあいつのことだから断ってくることはないだろうけど、にしたっていろいろとどうなんだろうね。