しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

氏神さんちのおむすび日記  010『浜辺と別れ』

 黄金色の浜風が俺の髪を強く揺らし、眼前の彼女自慢のポニーテールも真横へ流れている。
 虚ろに映る海の匂いと幻想的な砂浜の霧に囲まれ、その瞳は真っ黒に染まっていた。

「ごめんね。急に呼び出しちゃって」
「…………」
 彼女の声は、今にも波の音に掻き消されてしまいそうだった。弱々しい音色のはずなのに、ストリングベースのような強い弾みを帯びていて、奈落へ突き落とされた俺の心臓の鼓動をますます早くしていく。
「本当は他のみんなと帰りたかったんじゃないの?」
「それはお前の方じゃないのか?」
 彼女は小さくくすりと笑った。冷たい笑みは、夕暮れの浜辺にすっと影を落とす。思わず彼女の顔から反らしてしまったけど、彼女の方はじっと俺の視線を離さずにいる。そんなの見ていなくてもわかる。この湿っけの強い生暖かい風が、ちゃんと伝えてくれるから。

 鎌倉遠足が終わると、俺は海老名に呼び出されていた。
 『遠足が終わったら江ノ電に乗ってくれないかな。江ノ島駅の改札前に待ち合わせでいい?』
 たったこれだけのメッセージが俺のスマホに届いてることに気づいたのは、遠足最後の目的地である鎌倉大仏を散策している時だった。多分十五時くらいだったと思う。俺は他の人には気づかれないよう、『わかった』とだけ返した。変に顔色が変わってたりしないか、その辺りを妙に気にしていたかもしれない。 大仏見学という遠足の旅程を全てこなすと、そのまま解散となる。皆が鎌倉駅行き電車に乗るのを見送り、『用事があるから』と俺だけは逆方向の藤沢行き電車に乗った。平日の昼間でもそれなりに人が乗っていて、だけどそんなことを気にする余裕がないほど、いずれ着いてしまうであろう江ノ島駅へ、俺は後ろ向きに走っていたように思う。
 いつもそうだ。次に会う時は後ろ向きで。だけどそんな俺の様子に気づいてしまう彼女だからこそ、すれ違ってしまう。もしかしたら今日も? ただそれは残酷な期待というやつだ。

「私、君と別れたくないなぁ〜」

「そんなの俺だって……」
 だけどその次の言葉が出てこない。自分の意志に反して、もう一度彼女の顔をじっと見た。
 彼女は泣きそうな顔すらしていなかった。もちろん笑ってもいない。怒ってもいない。すとんと全てを振り落としたような、優しい顔。……優しい顔ってどんなだ? まるでここにいるのは虚像であって、本当はここに彼女はいないような。スクリーンに照らし出されてるだけのような、距離感さえも一切感じない。もしかして、幽霊? そんなことはあるはずないのに。
「だから、言わなきゃいけないんだよね」
「…………」
 息を呑む。お互い似た者同士だからこそ、呼吸と共に覚悟すらシンクロしてしまう。

「別れよう……って」


 もう一度湿った浜風が、俺と彼女二人の顔を同時に叩いてくる。じめっとはしてるものの、何故か不快な感じはしなかった。彼女はそれを撫で払うかのように、さっと長い髪を右手で抑える。
「ごめ……」
「謝らないでよ!! 君の謝罪が聞きたくてこんなこと言ったわけじゃない!」
 今度こそ怒った顔に威圧され、俺の言葉は完全に遮られてしまった。ただそんな顔もほんの一瞬だけ。また元の優しい顔とやらに戻ってしまう。こうなると俺もどう受け止めればいいのか、いよいよわからなくなってくる。
「そんな顔しないで。私は君を困らせたくないんだ」
「…………」
 というより俺、今どんな顔してる?
「ううん、そうじゃないよね。本当は謝らなきゃいけないのは私の方で……」
「なんでだよ!! 俺には謝らせないで、自分だけ謝るのはずるくないか?」
「…………」
 びくっとして、彼女は拗ねたように下を向いてしまう。今度は俺のほうが怒っていて、いやだけど彼女にそんな顔を俺だってさせたくない。どうしてまた……。
 ううん、違うな。俺と彼女はつまり。
「合わせ鏡だな」
「え?」
 彼女の表情が僅かに緩んだ気がした。俺がしてほしいのは、だけどもう少し違くて。
「お互い様ってこと。気づいたらどっちもすっきりしていない。誰も幸せになれてない。どっちも同じ顔してるってこと」
「……そっか」
 どうして? ……わからない。狂ってしまった歯車はもう元には戻らないのだ。
「ねぇ。これ、半分こして食べよ? どうしても君と食べるんだって、昨日から決めてたんだ」
「昨日から?」
 海老名が見せてくれたそれは『聞金堂』と書かれた紙の箱で、中を開けると串団子が二本入っていた。一本ずつ丁寧に、緑と赤と白、三つの団子が刺さっている。
「これってもしかして……」
「君がくれたんでしょ? あのチケットには『串団子二本と交換』って書いてあったのに気づいて、やっぱしこれは君と一緒に食べられるんだって」
 あのチケットというのは、俺が合唱コンクールの優勝景品にしてしまった聞金堂のお団子お土産チケットのこと。鎌倉遠足で使ってほしいと、元々は藍海ちゃんの友人が渡してくれたというそれだ。
「てゆかこれ使って別れ話を持ち出すなんて少しずるくないか?」
「だからだよ。お団子があれば二人で笑顔で別れることができるかなって」
「…………」
 笑顔でそんなこと言われたところで逆に反応に困る。
「昨日だって、ものすごく落ち込んだんだから」
「? 俺、何かしたか?」
 というより昨日は海老名に会ってさえいない。海老名を落ち込ませるようなことを俺はいつしたというのだろう?
「……唯菜と教室でずっといちゃついてた」
「…………は?」
 だけど想定外の回答に、俺は目を点にさせて抗議しようと試みるが、間違えなく海老名の顔は怒ってたりして。……いや、ちょっと待てって。俺は雨田の風紀委員の作業を手伝ってただけだぞ。

 俺と海老名は江ノ島海岸の一番背後にある階段状の場所に腰を下ろした。真後ろには水族館があり、時折イルカショーの歓声がここまで聞こえてくる。目の前には橙色の海。遠くには水平線が微かに揺れている。まだ日が落ち切るには時間がかかりそうだけど、初春の夕暮れというふらふらした光が、俺と彼女を二人、照らし出していた。
 こうして隣同士で座り合い、彼女とお団子を食べることが最後だと思うと、どこか落ち着かない気持ちになってくる。そもそも何故こんなことに。それすらはっきりわからないのに、俺と彼女の時間は間もなく終わりの時間を迎えようとしていた。
「だからね。唯菜には負けたくなくて、今日は最後に君を誘ったんだ」
「言ってることとやってることが随分滅茶苦茶な気もするけどな」
 『負けたくない』とか『最後』とか、支離滅裂の言葉が落ち着く場所に嵌ってしまう。というか今日は別れ話ってことで本当に合ってたよな?
「だってさ。唯菜に『長谷くんを彼氏にどう?』とか言った途端これだよ? あまりにもあっさりしすぎてて釈然としないんだけどな」
「つかお前が雨田を急かせたのか!?」
 そういえば雨田も確かに言っていた。海老名に『あの人どう?って具体的な名前を出された』って。だからってまさか自分の彼氏を友人に提案する彼女ってそれは一体どうなんだ!?
「でね。唯菜は急に棘が取れたようにしゅんとしおらしくなって、私の彼氏といちゃいちゃしてるの。どう考えたって納得行かないんだけどなぁ〜」
「どう考えたって自業自得というやつだろ!」
 頭痛い。というよりそれ、そもそも俺が何したというのだ?
「あんな風にさ、ずっと喧嘩ばかりしてたくせに、君とずっと冗談言い合っててさ」
「冗談にしてはきつすぎると思うんだが!!」
「でも私と君とではあんな風に喧嘩なんてしたことないよね?」
「え……?」
 冗談が冗談ではなくなる瞬間、彼女はやはり落ち込んでいるように見えた。というより、俺と会うときのいつもの海老名の顔で、それはもうとっくに見慣れてしまった顔でもあるけど。

「このまま君を、唯菜に取られちゃうのかな」
「とても今日俺に別れを告げた人の台詞とも思えないけど」
「でも……」
「そもそも雨田が俺を好きになることなんてあり得ないしな」
「え?」
 どうして皆俺と雨田を結びつけたがるのか、そこからして理解できない。だって、あいつの相手が俺ってどういうことだ? あいつは……あいつの怒った顔しか俺にはほぼ記憶にないけど、あいつみたいな天真爛漫な笑顔を向けられたら、俺なんかよりずっといい男も惚れるんじゃないか。ピュアで、素直で、温かい心の持ち主。雨田とはそういうやつだと思うから。
「俺みたいなのを好きになるくらいなら、もっと他に……」
「そう。それが、君がわたしを振った理由だもんね」
「え、俺が振った?」
 海老名はもう一度、また僅かばかりに怒っていた。けど、本当に怒っているのかどうかも、正直疑わしい。今日の海老名の顔は常に靄がかかっていて、俺は何と会話しているのか時々わからなくなっている。
「ううん、ごめん。……って今日は互いにこの言葉を使うのは禁止だったっけ。でもね。これが君の私を好きになれない理由であって、私が君を好きになれない理由だと思うの」
「それは……」
 その通りだった。これが俺と海老名が互いに距離を置く理由。

「私は人を愛せない。君も人を愛せない。だから私たちは別れる」

 波風が彼女の笑顔を攫っていく。すっぽりと隠されてしまったようで、泣いてもいない彼女の真っ直ぐな瞳は、俺の心臓を硬直させた。冷たさが互いに混ざり合って、結局最後には冷たさしか残らない。
「反論くらいしてもいいんじゃないかな? 彼女にこんなこと言われて、何とも思わないの?」
「それは、お互い様なんだろ」
「…………」
 しょうもないくらいに反論さえできないんだ。俺と海老名はずっとこうだったから。
「でもさ。最後くらい喧嘩したいと思わない? 言いたいこと言い合ってさ」
 喧嘩か……。確かにしたことなかった気もする。それこそ、今更なんだけど。
「だったら言わせてもらう。俺なんかとっとと諦めろ。お前ならもっといい男の一人や二人、よりどりみどりのはずだろ」
「嫌だ。そこは諦めるつもりない。本気で君を笑わせるまで、私は絶対に諦めない」
「それならどうして雨田に妙な話をふっかけたりしたんだ? 言ってることとやってることが滅茶苦茶すぎるだろ」
「利用できるものは全部使わせてもらう。いつか本当に私が選ばれるのならどんな手だって使う」
「そもそも、どうして俺なんかに?」
「だったらなんで君は私なんかと付き合ったの?」
「なんか、って……」
 言い淀んだ俺の顔を見て、海老名はくすくす笑い始めた。無茶苦茶な会話だったけど、海老名はこんな風に笑えることができたんだと、それを知ることができてほっとしていた。最後でもいいから、俺は彼女をこんな風に笑わせたのだと。たとえこれがまだ嘘笑いだったとしても、やっと彼女と向き合えた気がしたんだ。
「よかった。私たちもちゃんと喧嘩できるんだね。私、彼氏と喧嘩別れするのが夢だったんだよね〜」
「あのなぁ……」
 どこまでが冗談で、どこまでが本気で。笑っているのか泣いているのか、でも彼女の心の輪郭が少しだけはっきりしてくる。明確に曖昧な態度で、俺をからかってくるんだ。

「だからね。私たち、これからは友達でいいよね?」
「ああ。もうそれで構わないよ」
 ここまで来ると、もう半分ヤケクソだ。正直訳がわからないけど、付き合うとか別れたとか、今は彼女の本心よりも言葉の定義の方がよほどあやふやなものになっていたから。

 背後にあるスピーカーから、水族館の閉館を伝えるメロディーが聞こえてくる。もうすぐ本当にお別れの時間。海老名は夕日を再びその瞳に焼き付けた後、ちらっと俺のさらに後方を確認した気がした。少しだけ笑ったかと思うと、突然こんなことを聞いてきたんだ。
「ねぇ。最後に一つだけお願いがあるんだけど、いいかな?」
「なんだよ……」
「これからは私のこと、下の名前で読んでみてよ」
「は!?」
 そもそもなんだけど、海老名の下の名前って何て言ったっけ?

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