しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

氏神さんちのおむすび日記  008『義妹の涙と違和感』

 北鎌倉駅に朝十時。何の洒落けもない通勤電車に揺られ、ようやく辿り着いた県南の小さな駅舎だ。そもそも集合が一つ隣の鎌倉駅なら、藤沢駅での乗り換え一回で済んだはずなのに。
「そもそもなんで集合は鎌倉駅じゃないんだろうな?」
 そう、これだ。俺と乗り換え二回を済ませて同じ電車でやってきた甲斐友成が当然の疑問を口にする。
「ああ。前に藍海ちゃんが言ってたけど、あくまでこの遠足は修学旅行の班行動の練習も兼ねてるから、それでわざと集まりにくい駅を集合場所にしたって言ってたぞ」
「そういうことか。で、北鎌倉ってそんなに集まりにくい駅なんだっけか?」
「知らん」
 少なくとも鎌倉駅みたく江ノ電横須賀線の二択になる駅に比べたら集まりにくいんじゃないかとも思ってたけど、ここに来て気づいたことは北鎌倉駅という駅は改札が一つに集中してるから点呼も取りやすい。だとすると単に先生方の無駄な労力削減という理由だけだったのではないかと。
 集合は各班毎に北鎌倉駅に集まって、全員揃った班から先生に報告。そこから班行動という名の自由行動になる。先生方はその間小町通りで昼食会という名の待機という仕事してるみたいなことを藍海ちゃんが言ってたけど、『勤務中だから鎌倉ビールが飲めない』とも溢してもいた。つか昼間からビールって、それはそれでどうなんだ?

「おはよう」
 藍海ちゃんが昼間からビールを飲む姿を想像してると、不意打ちのように背後から声をかけられた。

「……あ、おはよう」
「おはよう、長谷くん」
 続け様に挨拶をしてきたのは、雨田と広岡だ。どうやら俺らと同じ電車だったようで、恐らくこの二人は電車の後ろ方にでも乗ってたのだろう。北鎌倉駅は改札が鎌倉駅寄りの前方にあるため、乗ってる電車は同じでも改札出るまでには時間差が生じやすいようだ。
「おはよう。雨田に広岡」
「甲斐くんもおはよう。……なんか今、あたしをもののついでみたいに挨拶してない?」
「そんなことはない。ちょっと気になることがあったから自ずとそうなっただけだ」
「ああ、それね……」
 などと友成と広岡が会話してるのを横目に、俺の方は何かを感じた違和感が気のせいだという結論を勝手に導き出していた。それが結局何なのか未だにわかってないけど。
「ねぇ。鎌倉って小さい頃にも来たことあるよね?」
「……ふぇっ?」
 何も気にしていない振りをしつつ、だが俺のすぐ隣にいる雨田が話しかけてきていることにはっと気がつく。この妙なざわつきは気のせいだということにしておきたいところだが。
「ほら。美来ちゃんが突然はぐれちゃって大変だった時の話」
「あぁ〜……あったな。そんなことも」
 雨田への対処に面食らいながら、何とか話を合わせる。そこへ美来との過去の話も混ざり込み、ますます調子が狂ってきた。

 そもそもあれは美来がはぐれたんじゃなくて、美来は自分から……。
 と思いだそうとしていたところに、スマホのブルっと震える着信に気づいた。俺は逃げるようにスマホの画面を確認すると、その内容は俺の目の前にいるはずの友成からのチャットメッセージだった。
『ところで昨日雨田と何かあったか?』
 何もない……よな? と友成を睨み返すと、何故かニヤニヤしてる友成と広岡が並んで立っている。
 どうでもいいけど、俺と同じ班の残り二人はまだ来ないのか?


 残りの二人が北鎌倉駅が到着したのはそれから約五分後のこと。広岡の友人(女子)と友成の友人(男子)が二人揃って到着した。友成の話を聞く限り二人は別にそういう仲ではないらしいが、なぜか波長が合ってしまう二人ということらしい。そういう関係もあるのかとも思いつつ、ただ波長が合いすぎると自ずとうまくいかなくなる関係になることも俺は知っていた。
 かつての俺と美来、そして今の俺とあいつの関係のように。

「あの時も大変だったよね〜。円覚寺で突然美来ちゃんがいなくなっちゃうんだもん」
「まぁ美来らしいと言えば美来らしかったけどな」
 今日の鎌倉遠足の一番始めの目的地は、あの時と同じ円覚寺だ。担任教師に班全員が揃ったことを報告すると、俺らは六人で駅のすぐ目の前にある円覚寺へと向かった。階段を登ったところに山門があり、木目調の厳かな空気が冬の鎌倉という街を鮮やかに彩っていた。
 円覚寺の境内はそれなりに広く、いくつもの木造建築が並んで建ってるかと思えば、山を登ると弁天堂と呼ばれる展望台のような場所まで存在する。美来のようなちっちゃな少女が走り回れば、そりゃすぐに行方不明になるという話もわからんでもない。
「弁天堂の一番奥の方で泣いてたんだよ。わたし見つけた時びっくりしちゃった。今でもはっきりあの顔は覚えてるもん」
「てゆかよく覚えてるな。小学二年の頃の話だろ?」
「そりゃ覚えてるよぉ〜。美来ちゃんがあんたの家に来たばかりの頃だったし」
 と、河豚のように口を膨らませて反発する雨田だったけど、正直言うと俺もあの日のことを忘れたことはない。あの日の反省が、今の俺と美来の関係を築いているわけだから。
「わたしもあの日に美来ちゃんと話せたから仲良くなれたんだと思う」
「そうだったのか……」
 雨田は笑いながら話していたが、俺もその点は同じだ。もっとも今だから笑い話になってるかもしれないけど、あの日の美来と俺はそんな生温い関係でもなかった。

 今日は他にも廻る場所があるので、弁天堂までは行くつもりはない。弁天堂に向かう階段を登り降りするだけで相当な時間と体力を浪費してしまう。であれば、山の下を廻るだけでもいいだろうって班の中でも決めていたのだ。
 弁天堂への階段の入り口を示す看板をちらりと確認する。もしかしたら俺はあの日、雨田のように真面目に美来を探すことを諦めていたのかもしれない。だから美来を見つけたのは雨田で、俺と美来は義理の兄妹になった。そう考えると元々これで正解だった気もする。
「ほら、班長。とっとと行かないと置いていくよ〜?」
「あ、ああ」
 説明書きに仏殿と書かれた建物の前で立ち尽くしていた俺は、前を行く広岡に声をかけられた。俺と雨田は六人の中で一番後方を歩いている。……ん。つかなんでさっきから俺の隣を雨田が歩いているんだ?

 実はあの日、美来が迷子になったという話は、真っ赤な嘘。正しくは美来の家出未遂だ。
 その事実を知ってるのは俺と美来だけ。あの日鎌倉から帰宅すると、俺と美来は大喧嘩をした。まだ小学生になったばかりで精神的にも幼かった美来と、それ以上に未熟で幼すぎた俺との喧嘩。美来が俺の家に義妹としてやってきた時から、俺達はずっとまともに話もできないような関係だった。互いに距離感や自分の立場がわからず、右往左往することしかできなかったのだ。受験に失敗した頼りない跡継ぎである小学二年の俺と、そんな俺を支えるためにこんな家にやってきてしまった小学一年の美来。確かに無茶苦茶な話で、うまく行かないのも当然だと今の俺なら気づくこともできる。『なんで家出なんてしようと思ったんだ?』とただ怒鳴るしかできなかった俺と、『いつもだらしないお兄が悪い!』と一点張りの美来。今思うと、これが最初で最後の美来との大喧嘩だった。
 そういえば美来が雨田と話すようになったのも、例の鎌倉家出未遂事件の後だとも言っていた。実の父親を亡くしたばかりで情緒不安定だった美来が、周囲に誰も知らない人だらけという状況下で閉じこもり、当然ご近所であった雨田であっても、その外界の一部としてしか見ていなかったのだろう。
「あの頃の美来ちゃん、今では考えられないほどの無愛想だったよね」
「ああ。本当にな」
 誰にも寄り付かず、常に自分の鏡とだけ会話している状態。それがあの頃の美来だった。雨田は俺と同じく弁天堂へと続く道の方を眺めながら、冷凍庫の中で凍ってしまった記憶を引き出そうとしている。
「わたしね、美来ちゃんを弁天堂の前で見つけた時、どうして泣いてるの?って聞いたんだ」
「というか本当に泣いてたのか? あの美来が??」
 ふと俺ははっとなる。多少迷子になっても自分は自分。そんな意志の強さを持つ美来が泣くなんてあまり考えられなかったからだ。というよりあいつ、俺の前で涙を見せたことなんて今まであっただろうか。兄妹としてもう十年近く一緒に暮らしているけど、そんな顔の記憶、俺には見当たらない。
「そりゃ小学一年生の女の子だもん。一人取り残されたら誰でも泣くでしょ?」
「そうか? だって美来は俺の前で一度も泣いたことなんてないぞ」
「それはあんたが兄としてだらしないからでしょ」
「…………」
 俺のせいなのかそれは?
「でもそれ『兄に甘えたくなんてない』っていう裏返しでもあるのかな? 美来ちゃんって結構頑固だし」
「ああ。そういうことなら納得できないこともないか」
「素直じゃないところはあんたも美来ちゃんも似たもの同士だもんね」
「別に俺と美来は血の繋がった兄妹ってわけでもないけどな」
 普段は『兄さん大好き』なんて口では言ってるくせに、本性は何を考えてるのか俺でも正直未だによくわからない。多分そういうカタチにしておけば丸く収まるのだって、頭の中で整理してるだけなのだろう。それは俺も結局は同じだ。お互いの関係を複雑なものにしない。割り切ってしまう。それを俺と美来は阿吽の呼吸でやれるだけの術を共に過ごす時間の中で育んできた。無意識のうちにすり合わせができてしまう。

「美来ちゃん、あの時に言ってたんだ。お兄ちゃんを困らせたくないのに困らせてるって」
「そっか」
 雨田は優しい顔でそう呟いた。目の前でくすくす泣く美来の姿が浮かび上がり、そんな美来を妹のように励ます雨田の姿が見えてくる。恐らく雨田の根っこにある部分は、俺らよりもずっと素直で純粋だから。
『お兄ちゃんはそんなこと気にする人じゃないよ。だってあいつ、美来ちゃんのこと大好きだもん』
「……え」
「気づいたらわたしそんなこと言ってた気がする。そしたら美来ちゃんが途端に笑顔になってね」
 その言葉に俺も思わず笑顔になる。雨田のピュアな言葉が、思わず俺をどきりとさせてきた。
 別に、その頃の俺が美来を大好きだったかと言える自信は正直ない。俺も美来と同じように、距離感を測りかねていた。そんな俺が美来のことを本当に好きと言えたかなんて……いや、違うな。雨田の言うとおり、ただ言葉が足りなかっただけかもしれない。雨田はちゃんと俺のことを見ていて、冷静にそれを言語化して紡いでくる。それが俺のできてなかった部分で、美来を泣かせてしまった本当の原因かもしれない。美来が泣いていた理由も俺のそれと同じで、あいつもあいつなりの言葉をちゃんと言語化できていなかったのだろう。そういう意味では確かに、俺と美来は似た者同士なのかもな。
「だからね。わたしも美来ちゃんを見習わなきゃなって」
「ん? 何の話だ?」
「こっちの話。あんたには関係ないでしょ?」
 雨田はさっきからくすくすと笑っている。円覚寺境内に並ぶ鎌倉の木々が冬の空気に美しく溶け込んでしまい、すっかり違和感というものも消え失せつつあった。
 そもそもさっきから違和感って、結局何のことだったんだ?

「そうだな。俺ももう大切な人を泣かせるようなことはしたくないしな」
「それこそ何の話よ?」
 ぽつりと漏らした俺に、今度は雨田の方が不可思議な顔を向けてきた。いつもの怒ってるようで怒っていない顔。それは怒っているのか結局どっちなんだって。というより怒ってるとしたらそもそもどうして怒ってるのかって。だけど美来との曖昧な記憶と、あいつとのはっきりとした記憶が、雨田の顔を明確にぼやけさせていた。

 ああ。ひょっとして俺はまた繰り返そうとしているのか。あいつに甘えるばかりで、互いのすり合わせが全くできていない。きっとそれを言うとあいつも俺と同じことを言うのだろう。これでは堂々巡りだ。
 俺とあいつの二人だけの問題。だからこそ俺は、あいつの涙を目に焼き付ける必要があるのかもしれない。むしろあいつの涙を他の人に見せるわけにはいかない。あいつを救えるのは俺だけなのだから。

 鎌倉という時を越えて、今再びその時間が迫ってきていることにも、俺は気づいていた。

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