しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

氏神さんちのおむすび日記  007『あいつと微笑み』

 あいつのクラスが優勝した合唱コンクールから二週間が経ち、明日は鎌倉遠足その日となった。
 季節は間もなく三月。そういえば鎌倉でも今は梅が見頃のはず。今年の冬は例年より少しばかり寒かったとはいえ、時期的には丁度頃合いだ。鎌倉は海にも近いから、同じ県内とはいえ俺らの住む街より暖かい。明日は円覚寺明月院など廻るコースになっているから、どこかで美しい梅の花にお目にかかることになるだろう。

 そのためにもこの作業をとっとと終わらせないとな。
 現実逃避を諦め、目の前の書類の山を眺める。相変わらず山の頂が高い場所にあった。山頂に立てば絶景かなともなるのだろうが、このミッションは登れば登るほど山は次第に低くなるやつ。だから見晴らしなんて……いや、それより全て完了したところで恐らく待っているものは溜息まみれ。見晴らしとか関係なく、精も根も尽きてる気がする。
 俺はもう一度溜息をつく。ふと隣の席のもう一つの山の高さを数えていた。うん、間違えない。
「なによ……」
「まだまだ時間かかりそうだなって」
 間違えなく、俺より雨田の方がな。
「うっさいわねー! そんなこと言ってないでとっとと終わらせるのよ! ってなんでもうそんなに終わってんのよ!!」
「お前なぁ……」

 そもそも雨田一人にこの全てを任せようとしていたこと自体が、完全に誤りだったのだ。

 まだまだ無法状態にある山の正体は、合唱コンクール後に取ったアンケートだ。
 風紀委員でアンケートを作成し、それを回収するところまでは順調だった。が、雨田はこれまで一週間という時間を費やして、ようやく二クラス分の集計を終えたのだ。残りは四クラス分。この調子ではいつ全ての集計が終わるのか見当がつかない。とりあえず俺と雨田は残りを半分こして、今日は各々二クラス分の集計作業を終わらせるつもり。これが鎌倉遠足前日に託された今日のミッション。
 冬の夕暮れは早い。俺は教室の照明を灯した。雨田はキーボードを叩く作業がいかにも不慣れで、手元のアンケート用紙と睨めっこしつつ、一生懸命その内容を集計ファイルに打ち込んでいた。時間が経つのも忘れ、こんな暗くなった教室では絶対目を悪くする作業だ。
 アンケートを回収し終えたのは一週間ほど前のこと。雨田は一人でこの作業をし続けて今に至っている。つまり一週間でちょうど二クラス分。同じペースで残り二クラス分を今日一日で終わらせるとか、そりゃ無理なんだよな。
「あんた、こういう作業は慣れてるの?」
 なお俺の手元の残りはまだあるとは言え、一クラス分は終わっている。残りは半分。
「ああ。神社とか町内会とかの手伝いでいろいろさせられるからな」
「なんか、むかつく……」
「言っとくけど俺より美来の方がこういうの得意だぞ。てゆかなんでお前は苦手な作業を一人で全部やるって言い出したんだよ?」
「今までこういうのやったことなかったから。ほら、何事も経験だって言うでしょ?」
「だったらせめて『一人でやる』とか言い出すなよ。結局俺が手伝ってんじゃねぇか」
「……悪かったわよ」
 合唱コンクールのアンケート集計作業は、その主催である風紀委員の仕事の一つだ。ただ風紀委員のメンバーだって部活と掛け持ちしてたり、放課後は予備校へ通う人だっている。誰だってこんな面倒な作業はやりたくないのだ。が、そんな常識を覆すほどに雨田という女子高生は真面目一筋で、『誰もやらないならわたしがやる』と言い出した次第。……いや、そこまではよい。ただこんなにパソコンが苦手なのなら予め言っておいてほしいものだと。
 とはいえ雨田のこういう側面は俺には持ち合わせていない部分なわけで、正直羨ましくもあった。


「そういえば『えんむすび』の企画書も美来ちゃんが一人で書いてたのよね?」
「美来は好きでやってるからな。頭の中で考えたことをそのままパソコンへ吐き出してる感じだ」
「そうなんだ。ほんと、中学生とは思えないほどしっかりしてるよねぇ〜」
 そうこう話してるうちに俺の分はもうすぐ片付きそうだった。間もなく雨田の分も巻き取れるだろう。時間は十七時を少し回った程度。冬の弱い夕日の光が、微かに窓の外から混ざり込んでくる。
 ちなみにあの美来という女子中学生は、市販のパソコンを買うことなど絶対にない。自分好みのパーツを掻き集めては組み立ててしまう完全な自作パソコン派だ。ついでに言うとOSだってWindowsなどという生温いものは入っていない。『今どきオープンソースで何でも動いちゃいますから〜』とか言いながら、無料のLinuxと呼ばれるOSをダウンロードしてきて、それを自作パソコンの中へインストールしている。そんな女子中学生のオタクさを口外しようものならさすがに周囲はドン引きなわけで、俺はとりあえず黙っていることにしている。つかあの義妹は一体どこを目指しているのだ?
「まぁあいつはちょっと変わった性格してるから。年相応の色恋に目覚めれば少しは性格も大人しくなるんじゃねえか?」
「あれ? でも『えんむすび』を発案したのも美来ちゃんだよね?」
「ああ。だからさっき企画書を……」
「じゃなくて。前から思ってたんだけど、美来ちゃんの性格と恋愛成就という『えんむすび』の発想がどうしても結びつかなくて」
「…………あぁ〜」
 そりゃそうだ。『えんむすび』の元々の発案は本当は美来ではなく、あいつなのだから。
 だけどそれをあいつの許可なく雨田に話すわけにもいかない。そもそも俺とあいつの関係は、雨田に顔見知り程度と思われてるはずだし。
「やっぱし美来ちゃんにも好きな人できたのかなぁ〜」
 お、雨田の口からそっちの方向へ話が行ってくれた。正直助かる。
「それはないな」
「例えば『お兄さまお兄さま』って言いながら実はあんたのことをそういう対象で見てるとか。あんたたちって兄と妹とは言え一応義理なんだよね?」
「それだけは絶対にありえないから安心していい」
 前言撤回。話があまり変な方向へ流れすぎても良くない。そもそもそれに関しては先日美来の言質を取ったばかりだ。俺にとってあいつは義妹であって、恋人とはなり得ない。
 ……だと、思うよ? たまに美来の考えがわからなくなるのは事実だけど。

 気づくと俺の分、つまり二クラス分のアンケート集計は無事に終わった。残りは雨田のノルマ分。のはずだが案の定と言うべき、雨田はまだ一クラス分さえ終わっていない。とりあえず俺は黙って雨田の手元から、一クラス分のアンケートをごっそり自分の方へ持ってくる。たぶんこれで俺と雨田の作業時間はちょうど同じくらいになるはず。
「……ありがとう」
「…………」
 別に感謝を言われる筋合いはない。元はと言えば雨田に全作業を押し付けてしまった俺のせいでもある。風紀委員副委員長として失格なんだろうな。
「ねぇ。あんたに、変なこと聞いていいかな?」
「変なこと?」
 唐突に変な話の振られ方をする。しかしよく考えると雨田から『ありがとう』とか既に変だった。
「詩音って…………藍海ちゃんのクラスのクラス委員だよね?」
「……あ、ああ」
 ん? 変どころかうちの学校にとっては一般常識レベルの話だなこれ。ってそれは言い過ぎか。
「仲、いいの?」
「い、いや。普通に隣のクラスのクラス委員だなって程度だけど」
 意図が分からず、自然の流れで嘘をつく。そこに負い目のような感情は生まれない。
「そうだよね。……ううん、なんでもない」
「どうしたんだよ急に。何かあったか?」
 だけどその返しは完全に墓穴だ。その前に今は俺が負い目を感じていないことに胸中を痛めていた。そのせいだろうか、随分と無防備な聞き返しをしてしまう。聞き返さない方が俺とあいつの関係を悟られずに済むという事実を、すっかり見落としていたのだ。
「あ、あのね。詩音が最近『恋人作らないの?』ってしつこいからなんとなく」
「…………ふ〜ん」
「『たとえばあの人とかどう?』みたいに具体的な名前まで出されちゃったりして……ね」
「そうなんだ……」
 パソコンの画面に没頭し、なんとか取り繕ってみる。が、あまりに妙な展開にはっとなり、顔を上げてしまった。その瞬間雨田と視線が重なり合う。思わず見つめ合い、そのまま互いに顔をしかめてしまった。
「…………」
 雨田はまた黙ってしまう。え、だからどういうことだこれ。
「どうした。急にそんなむっとして」
「……なんか、詩音に彼氏持ちムーブをアピールされてるようで釈然としない」
「あ、ああ……」
 俺は思わずほっとする。この安心は何だろう。
 雨田はあいつに苛立ちを覚えてるようだけど、恐らくあいつにそういうつもりはない。羨ましがられる境遇とは大分違うから、本心で雨田の恋というやつを応援しようとしてるはず。ただそれを答えるわけにもいかず、俺は話を左から右に流すだけ。
「いいもん。わたしはあんたより、絶対先に彼氏作ってやるんだから!」
「お、おう。頑張れ」
 競う相手が間違ってることも指摘しようと思わない。つか俺は男だし、間違っても彼氏を作るつもりはないけどな。残念ながらそっち系に興味はない。
「…………」
「……今度は何だよ?」
 気づくと雨田はまだ俺に何かを目で訴えかけている。頼むから作業の方にも集中してくれ。
「あんた、実は彼女いるの?」
「は……?」
 今日の雨田はやはりどこかネジが取れているようだ。
「……いるんだ?」
「ノーコメント」
「否定しないってことはやっぱしいるんだ?」
 俺はポーカーフェイスというやつを試みる。可能な限りのスルー。さて、作業作業。
「別にいいもんね。あんたに彼女がいようとセフレがいようとどうでも」
「だったら最初から聞くなよ」
 つかおいなんか如何わしい単語が含まれてた気もしたけど。どこかのアニメで覚えたばかりみたいな単語をクラスメイトに対して容易に使わないでほしいんだが。
「でも……」
「今度は何だよ?」
 そろそろ大分めんどくさくなってきたので本当に作業に集中してほしいところだ。
「わたしも、鎌倉でお団子食べたかったな……って」
 だけど一段階落ちたトーンで、微笑を浮かべた雨田はそんなことをぼそりと溢していた。

「そんなに、食べたかったのか?」
「ううん、そうじゃなくて……」
「悪かったよ。俺がもっと風紀委員としてクラスをまとめられていたら……」
「いやだからそういうんじゃないんだって。藍海ちゃんに聞いたんだけどさ……」
「ああ、その話か。あのチケット、元はと言えば俺が藍海ちゃんに『雨田と食べてこい』って渡されたものだったって」
「え、何言ってるの? あれ、あんたとあんたの彼女に使ってほしくて渡したんだって藍海ちゃん言ってたけど。あたし、あんたの彼女になった記憶は一ミリもないわよ」
「そりゃそうだ。……って藍海ちゃん、そこだけを切り出して話したのかよ!?」
 正確に言うとどちらも不正解。藍海ちゃんは、俺と雨田とあいつの三人で使ってほしいと、俺に例の鎌倉の団子屋さんの無料チケットを渡してくれた。だけど俺はそれを合唱コンクールの優勝景品に回してしまう。それは藍海ちゃんも了承済みの話だし、俺と雨田とあいつの三人でなんて端から使えるはずもないのだから。
「そんな話じゃなくて……わたしも誰か大切な人と一緒にお団子を食べたかったなって」
「大切な人? 誰だよそれ」
 雨田に好きな人でもできたのだろうか。まぁ俺には関係ないが。
「誰って……詩音?」
「なんでそうなるんだよ!!」
 不意打ちのようにその名前を耳にして心臓が跳ね上がりそうになるが、俺はなんとか耐えることができた。というより俺も把握してなかっただけだけど、実はあいつと雨田は仲がいい? よく考えたら先日もからかい半分であいつの口から雨田の名前が出てきたばかりか。
「なんで、って……」
「ついさっきも海老名への愚痴ばかり話してなかったか?」
「でもわたしにとって詩音は、中学の頃から仲の良い友人だし……」
「そう……だったのか」
 知らなかった。二人が中学の頃同じクラスにいたことがあるという事実だけは知ってたくらいだ。
「あれ? なんか落ち込んでる?」
「え。俺、今落ち込んでるように見えたか?」
「ふーん」
「何だよその反応?」
「……まぁいいや。でもわたしだって本当は詩音じゃなくて、誰か異性の好きな人と鎌倉でお団子食べたいとか考えることがあるのだよ」
「そうなのかよ」
「そうなのだよ」
 雨田はにこりとした顔を俺の方に見せ、冗談を言うように俺と口調を合わせてきた。
 でもよく考えたらこれは意外なことだ。俺にとって雨田の顔はほとんど怒った顔しか知らなかったし、そんな雨田がなぜ今このタイミングで、俺にこんな顔を見せたのか。まぁ俺の知らない雨田の一面があっても今更気にすることでもない。俺だって雨田に隠し事をしてるわけだし、その逆もまた当然然り。
 ……そう思ってた。次の一言を聞くまでは。

「でももしあんたが詩音と付き合ってたら、なんかお似合いだなって」

 聞き間違えだと思った。その声は、俺に届くか届かないかくらいの微かな声だったから。
 だから俺は、聞こえないふりをするのが精一杯だった。その声が真実でも虚偽であっても。

「明日は鎌倉だね。それまでにこれ終わるかな?」
「終わらせるんだよ。ほら、もう後これだけだろ」
「早っ! なんでそんなに終わってるの?」
「お前が一人で喋ってばかりだったからだろ」
「あんただって一緒にずっと喋ってたじゃん!!」
 声のトーンこそ元のそれに戻ったが、日はすっかり落ちている。そりゃそうだ。もうすぐ十八時で、間もなくチャイムも鳴り、完全下校時刻ともなる。さっきまでグラウンドから聞こえていた野球部の声も今はすっかり止んでしまい、恐らく片付けを始めている頃なのだろう。
 こちらも雨田の進捗はともかく、大方俺の分は集計作業を終わらせていて、手持ちも間もなく終わる。ってところで雨田が再び声を上げた。
「終わった! ほんとに終わったよ!!」
 いやそれは雨田の手元分がなくなっただけで、俺の方に後一枚残ってるんだけどな。
「お疲れさま。これで明日は気兼ねなく鎌倉に行けるな」
「……別に終わらなくても鎌倉には行ってたもん」
 そういう問題じゃないだろ。というツッコミはさておき、雨田にこの作業を押し付けてしまっていた俺の過去の行動について、今更猛烈に反省している。
「でも、本当にありがとう。手伝ってくれて」
「別に。これも副委員長の仕事だ」
 そう俺が答えると、雨田はくすっと笑う。つか今どこかに笑う要素があった?
「……そっか。そういうところなんだね」
「だからなにがだよ?」
「うん、なんでもない。こっちの話」

 今日の雨田は本当によくわからないことだらけだ。珍しく怒った顔以外も見せたと思いきや、理由を尋ねるとうまくはぐらかされる。その度に調子が狂うのと同時に、俺はもやもやした感情にも襲われていた。

 あいつにもこんな顔、本当はさせなくちゃいけないんだろうなって。

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