風紀委員主催クラス対抗合唱コンクールは、結局藍海ちゃんのクラスが優勝となった。
帰り際、藍海ちゃんがするするっと近寄ってきたかと思うと小声で『うちのクラスが優勝しちゃったらタカくんにチケット渡した意味がなくなっちゃったじゃん』と言ってきた。けどマネーロンタリングならぬ、チケットロンタリングとやらができたと思えば、今回の合唱コンクールにお団子屋さんの無料チケットを使ったのは正解だったはずだ。もちろん、れっきとした学校行事に優勝景品とか倫理的にどうなのかもしれないけど。
「私は藍海先生の言うとおりに長谷くんと二人で食べたかったんだけどな」
「さすがに二人でひとクラス分の団子を食べるのは無理があるだろ」
「そこは唯菜も誘えばよかったんじゃない? 唯菜って結構大食いだし」
「そしてなぜまた雨田を話に巻き込む?」
優しい瞳で睨み返してくる彼女の右手には、例の優勝景品となったお団子屋さんの無料チケットがあった。そこには一枚しかないことを見せびらかせるように、俺の目元でひらひらと揺らしている。
「だって長谷くん、唯菜の幼馴染でしょ? いつも仲良さそうだし羨ましいなって」
「海老名がそれを言うとさすがに冗談に聞こえないんだが」
「ふふっ。でもそのおむすびだって……あ、ここら辺でいいんじゃないかな」
そういうと海老名は目の前にあったベンチに腰を下ろした。それを見届けると俺もすぐ左隣に座り、海老名へおむすび一個を手渡す。さっき雨田の家のおむすび屋さんで買ってきたおむすび二つのうちの片方だ。もう一個は俺の分。俺がこの曰く付き『えんむすび』と呼ばれるおむすびを買ったとなれば、レジにいるはずの雨田の母親は間違えなく邪推するはず。それなら私が買ってくると海老名は俺を店の外に置き去りにして、そそくさと買ってきてくれた。
今日は合唱コンクールがあったため、バスケ部の練習も休みなんだそうだ。いつも部活が終わった後だと買いに行っても確実に売り切れているので、どうやら今日という日を以前から狙っていたらしい。
「ほんとにおいしい。さすがは唯菜の店の看板商品だね」
「それ、発案したのお前だろ?」
「私が考えたのは『えんむすび』っていう円い形ってとこだけ。具材を考えたのは美来ちゃんでしょ?」
「まぁ雨田は完全に美来が全部一人で考えたって思ってるようだけどな」
「それでいいんだよ。『氏神さんちのおひいさま』の発案って銘打った方が絶対売れるし」
手柄を全部俺の妹に受け渡してしまった海老名はそんなの知ったこっちゃないと言わんばかりに、もぐもぐおむすびを食べている。実際この『えんむすび』と呼ばれるおむすびは、丸型のおむすびとその名前までは海老名の発案で、中身である具材については美来の発案だ。だけど俺はそれを隠して、雨田には『美来が一人で考えた』と伝えていた。ご町内の間では『氏神さんちのおひいさま発案とか絶対ご利益あるやつ』という具合で知れ渡り、海老名の言う通り、あっという間に店のヒット商品となってしまったんだ。
だけど海老名はそんな経緯など全く興味ない様子。ただ目の前のおむすびを幸せそうに食べ続けている。
……ああ、どうして俺は海老名のこの顔をいつも守ることができないのだろう。またしても後悔の念が俺の胸の奥底で渦巻いていた。
「私はね、長谷くん……」
「…………」
そんな俺の顔の所在を、海老名はしっかり見抜いてくる。もっとも海老名はいつも知らぬふりをするばかりだけど。
「このおむすびには、ある願いを込めてたの」
「願い……?」
そう尋ねると、海老名はおむすびを手にしたまま大きく息をついた。それはため息なのか、それとも……。
だけど海老名はそのまま言葉を飲み込んでしまい、願い事を口に出すことは結局許されなかったようだ。
「あれ? 詩音と隆史じゃん」
間が悪いのかそれともこれを何と呼ぶべきか、聞き覚えのある女子の声に反応すると、目の前には雨田の姿があった。ただきょとんとしてる雨田の顔に、俺はなぜか救いのような何かを見てしまっていた。
俺と海老名が座っていたベンチはちょうど三人がけで、雨田は海老名の右隣に座る。俺が左側だから、ちょうど雨田を二人で挟む形になった。なお間違っても雨田は俺の隣りには座ってこない。
「ねぇそれより、二人って仲良かったの?」
そう何気ない顔で尋ねてくる雨田に、俺はそういえばと立ち上がろうとした。雨田がここに来た以上俺がここにいるのは不自然だ。おむすびも食べ終わったことだし、俺はそろそろ……。
「…………」
だが気づいたら俺の服の裾はしっかり掴まれていて、立ち上がろうにも立ち上がれなかった。
「……あ、ああ。この前風紀委員とクラス委員の合同会議で助けてもらったから俺が奢ってたんだよ」
「へぇ〜そうなんだ。つか、あたしだって年末に神社の手伝いしたのに奢ってもらった記憶ないんだけど」
「それは自治会の仕事だろうが。俺も美来だって誰かに奢ってもらえてねーよ」
立ち上がろうとする俺を海老名の無言の左手が拒否したのだ。彼女の左手の行方は、もちろん雨田には気づかれていない。俺と雨田がこんなやり取りをする中、海老名は得意の無表情を作り出していた。
「自治会の仕事っていうかあんたの神社の手伝いでしょ! なんでわたしの年末年始をあんたの家業に取られなきゃならないのよ!?」
「俺だって好きで神社の子に生まれてきたわけじゃねーよ」
「は? それ、言い訳のつもり? あんたが神社の子に生まれてきたことと、わたしがあんたんちの家の仕事手伝うことって全然関係ないじゃん!」
「いやだから俺がどうとか関係なく、うちの神社は自治会でお世話するってのが昔からの風習だろ?」
「知らないわよそんなの。そんな風習にわたしの貴重な年末年始を邪魔されたくないんだけど」
「俺だってそうだよ!」
「あんたはそれが仕事でしょうが!」
「俺はまだ無職の高校生だ!!」
と、気がつくとすぐ真横からくすくすと笑い声が聞こえてくる。当然その声の主というのは、こんなしょうもないやり取りをする俺と雨田の間に挟まれた海老名だ。
「ふふっ。ほんとに二人って仲がいいね」
「「どこが(だ)よ!!」」
雨田と俺の声が重なる。……いや待て本当に冗談になってない。
「そういうところじゃん。みんなが唯菜の恋を応援したくなる気持ち、なんとなくわかるな〜って」
「「…………」」
というより全く冗談になってないことを言い出しているのは彼女の方なのだが。
「でもさ。二人は幼馴染なんだよね。私にはそういう仲のいい幼馴染はいないからやっぱし羨ましいな」
「別に……羨ましい話でもなんでもないと思うが」
苦し紛れに否定してみるが、それ以前にこんなことで苦し紛れになってる俺の方も本当にどうかしてる。
「そんなこと言って、詩音だってちゃんと彼氏いるじゃん?」
そしてまた雨田はお約束どおりに地雷を思いっきり踏んでくるんだ。ここでその単語を出すな。まぁ何も知らない雨田にそれを言っても無駄なのは間違えないが。
「彼氏かぁ〜……。いるね。うん、いるよ」
「何よ、その間は……」
こういう話は雨田と海老名の二人の時、せめて俺のいない場所でしてほしいものだ。
ただ俺は未だにこの場から逃げようにも逃げられないでいた。海老名の左手があれからずっと俺の服の裾を掴んだままだから。むしろさっきより引っ張る力が強くなってるような……え、引っ張られてる?
「唯菜も彼氏を作ればきっとわかると思うよ」
「どういう意味よ?」
「ふふっ。ヒミツ」
彼女の顔は真っ直ぐ前を向いて、そう答える。俺の顔とも雨田の顔とも、誰とも合わせていなかった。
「なんかムカつく。詩音がわたしを子供扱いしてるみたいで」
「うーん、そうかも?」
「そこは否定してよ!」
ただ真っ直ぐ前を向く海老名の顔は、確かに笑っている。
「彼氏と彼女の関係って、そんなに甘いものばかりじゃないってことだよ」
「えっ……」
静かに笑う彼女は、どこか奥底に眠る鬼の仮面を隠しているようで、俺はその顔を直視することができなくなっていた。
「だって唯菜は甘いものが大好きでしょ? そんな唯菜に大人の恋愛は似合わないだろうなって」
「やっぱし子供扱いしてるじゃん!!」
「唯菜はそこが可愛いんだもん。自分の武器を手放すのは良くないよ?」
「ちょっ!! ……いいもん。恋愛の『れ』の字も知らないくせにいつも自己満足的に大人ぶって実は妹よりも頼りないどこかの誰かさんよりはわたしも大人のつもりでいるから」
「ん? 今、俺がディスられた?」
「そうだねー。君、この前の会議だって私に助けられてなんとか会議を進めてたほどだしね」
「海老名まで俺に対してフォローなし!?」
つかそんな俺の服の裾を今まさに引っ張ってくるのはどこの誰だったか。
「ふふっ。そういうところが羨ましんだけどな」
「ん、何か言ったか?」
「ううん、なんでもない」
彼女は小さく愚痴るように、自分の言葉の真意を隠そうとする。
「でも、それ言ったら私もまだ子供だよ。私もずっと頼っていないと前にも進めないんだから」
海老名の視線はやや上に向かっていた。冬の青い空はまだまだ冷たくて、誰の手にも届くことができない空の天井を、ひたすらに追いかけることしかできない。ようやく俺は海老名の顔を直視すると、海老名の瞳は清々しいほどに透き通っていて、何にも届かない無限の空間がその中に宿っているのを見た。
「私はね、このおむすびにある願いを込めてたの」
まだおむすびの最後のひとくちを手にしていた彼女は、そっとそれを空に掲げ、もう一度口にしたその問いかけを、今度こそ外に出すことを選択していた。
「世界中の誰よりも好きな人と永遠の縁が結ばれますように」
彼女が出したその声は、あっという間に冬の冷たい風に流されていく。
まるで誰も聞いていなかったように、聞かれてはいけなかったかのように、冷たい空気の中へと消えていった。
「なんか素敵だな……」
「人の願い事を聞いておいて、そういう感想ってどうなのかな?」
雨田の恐らく自然と出たその言葉に、ずんと胸の内が熱くなる。海老名は笑いながらそう返しているけど、どこか照れくさそうにしている様子にも俺は気づいてしまった。
だけど物事はそんな簡単な話じゃない。その願い事にはしっかりと影が残っていて、既に見えてしまった未来を暗示してしまっただけのようにも思えたんだ。
さほど遠くもない未来。彼女と俺は、それを受け入れる準備ができつつあった。