月香が僕の家に戻ってきたのは、今から二週間ほど前のこと。
ほぼ二週間ぶりに帰宅した月香は僕には何も言わず、僕の両親には『ただいま』とだけ言って迎えられた。
事実を知った後となってはやはり奇妙な話でしかない。つい数ヶ月前まで、『百年に一度の天才女優』としてテレビドラマやテレビCMに出まくっていた彼女が、今風に言うところの異世界転生をして、こんな何の変哲もない男子高校生がいる家で暮らし始めたのだから。彼女の過去の事実は完全に消去されており、あんなに知名度抜群だった前世の名前『黒峰洋花』は散り散りに消えて、影も形も残らなくなっていた。
皮肉なのは、彼女に消えてほしくなかった人には強く記憶として残ったままになっていて、僕もその一人。どうせなら僕の中からも完全に消えてくれてた方が、彼女と喧嘩をしなくて済んだのかもしれないのに。
なんだって彼女は、僕の中に残ってしまったのだろう。それが許せなかった。
許せない気持ちが彼女と喧嘩した理由であるのに、だけどそれは彼女のせいでもなんでもない。
なぜなら彼女は、僕を含めた誰の記憶にも残らず、自分が消えることを望んいでいたわけだから。
「ただいま」
「…………」
彼女は玄関先で独り言のように帰宅したことを告げる。だけど今日は誰からの返事もない。僕の両親は共働きで今日は帰りが遅くなると言っていたから。そして僕も無言のまま。
『虹色ゴシップ』のデビューライブが一昨日終了し、今日はライブ後初めてのバイトの日だった。僕と月香は『虹色ゴシップ』専属プロモーション補佐係を任されていて、プロモーション係リーダーで且つクラスメイトで月島隼人と一緒にプロモーション企画の立案や、動画の撮影などを行っている。今日だって動画の撮影が終わると僕はそそくさと帰路につき、同じ場所へ帰宅するはずの月香は事務所のフロアに置き去りにしてしまう。我ながら、醜い人間だ。
「ねぇ……?」
彼女が帰宅しても、互いに言葉を交わすことなどない。そもそも今更何を話せばいいのだろう。
「ねぇってばぁ……?」
思い出してしまった彼女のことをなんて呼べばいいのだろう? 月香? それとも洋花?
「ねぇってぇ……??」
だからそんな末尾が疑問形で声をかけられたところでどうしろというのだ。
「てかなんで疑問形なんだよ!!」
そんな彼女に思わず反応したせいで、僕の末尾は疑問形にすらならず、やや怒ったような口調になってしまった。彼女はびくっと反応し、視線の温度は一気に下がる。これは、僕のせいか?
「あ、あのさ? 冷蔵庫の中のプリン、食べていいかなって」
怯えた声で彼女はそう訪ねてくるんだ。……いつもなら何も言わずに食べちゃうくせに。
だから僕はその唐突な呼びかけに、咄嗟に反応できなかったわけだから。