しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

流れ降る星の雨音 〜燐〜 Prologue

 これがもう一つの時間が流れ始めた瞬間だった。

 あまりにも一瞬の出来事で、本当に何が起きたのかわからなかったんだ。気がつくと僕の両腕に彼女の体重がずしりとのしかかっていて、徐々に痛みさえ伴ってくる。いや、彼女の身体が重いとかそんなことはなくて、見た目通り華奢な身体で、ただし出るところはしっかり出てるというか、彼女の生暖かい体温がその柔らかい胸部から僕の前腕に伝わってくるんだ。
 そもそもどうしてこんな格好になっているんだ? 彼女はどこかから飛んできて、僕は慌ててキャッチしただけ。やっと彼女の身体を支えている。どことどこが触れているとかあまり考えたくもないけど。

 僕の耳に響いていたクラクションの音が微かに残り、そのまま消えていった。

「…………」

 沈黙。彼女の身体を落とさないようなんとか彼女の顔を覗き込むと、彼女自身も何が起きたのかわからない様子だった。それにしてもなんて顔をしているのだろう。辺りは暗くぱっと見では気づかなかったけど、電灯に照らされた黒髪の彼女は間違えなく美人で、どこか神々しささえ感じてしまう。

「……って、ちょっと?」
「は、はい? なんでしょう???」

 どうやらようやく彼女も正気を取り戻したらしい。

「……じゃなくて、どこ触っているのよ!!!!」

 もちろん正気を取り戻したということは、こういう文句の一つや二つ言われることも当然かもしれない。けど僕にとっては不誠実極まりない罵りであるように思うんだ。

 今にも星が降りそうな五月の夜空の下、降ってきたのはとてつもなく美人な彼女だったわけで。

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セピア色の傘立て 008『虹色ゴシップ』

 春の大型連休も終わり、坂道だらけのこの街にも若葉の香る空気が流れ込むようになった。瑞々しい五月の風が落ち込み気味だった私を勇気づけてくれる。そんな心地がある。正直、今年の桜の匂いは鬱陶しいほどに苦手だったから、ようやく季節が春らしく思えてきたんだ。

「わたしたちのダンス、やっと様になってきたんじゃない?」

「やっとっていうか、碧ちゃんがダンスの練習始めたのって一昨日のことだよね?」
「たった二日間でここまでできるなんて貴女も大したものね。ますます殺したくなってきたわ」

 まだ歌のない音楽だけのその曲をスマホから停止させると、同時に碧ちゃんと楓さんも足のステップを止めた。最後はとても物騒な単語が飛び交った気もしたけど、それは平常運転の光景だ。

「でも碧ちゃんがようやく正式加入を決めてくれて、私も嬉しいな」
「まだすっきりはしてないけどね。でもこのままじゃ事務所での居場所がなくなっちゃいそうだし、きっかけづくりはしておきたいかなって」
「つまりあの大きな事務所では貴女もちっぽけなネズミでしかないってことね」
「それをはっきり言わないでよ〜!!」

 碧ちゃんだけは知り合いの事務所から助っ人で入ってもらってるという形だ。というのも碧ちゃんの事務所は比較的大きな芸能事務所で、私達と同世代に子役から活躍してる国民的女優がいる。しかもその彼女と碧ちゃんのキャラクターがもろ被りしてるのだ。このままでは事務所の中でも碧ちゃんが埋もれかねない。そこで提案されたのが、うちの事務所のユニットとアイドルデビューするという話だったらしい。

「でも貴女が入ってくれるのはあたしにとっても願ったり叶ったりね」
「どうせまた『これで殺せるチャンスは永久的なもの』とか言うつもりなんでしょ?」
「そこまであたしを理解してくれるなんて、もはや何も言うことはないわ」
「うっさい黙れそこのブラコン娘」

 詳しくは知らないけど、どうやら楓さんの兄が碧ちゃんと知り合いなのだそうだ。楓さんは何かとすぐに兄の話をしたがるし、そこへ碧ちゃんが速攻でツッコミを返すのが日常茶飯事となっている。

 きっとだからなのだろう。楓さんが碧ちゃんに濃厚な殺意を抱いているのは。

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エーデルシュティメ 012『ヒトであるお兄ちゃんとAIであるボク』

「お兄ちゃんお腹空いた〜。ご飯ちょうだい!」
「…………」

 無言。さっきからボクのことを全く相手にしてくれない。
 まるでボクのこと見てはいけない幽霊か何かと勘違いしてるよう。確かにそれに近い何かではあるけど、でもボクを見たところで命も魂も抜かれることはないんだけどな。

「あ、ダメだよお兄ちゃん。いくら自分の部屋だからってそんなダサい服着たら女の子に嫌われるよ〜」
「…………」

 そしてボクに我関せずで着替え中。こんなしょうもないお兄ちゃんの姿をあの小娘連中に見せるわけにはいかない。特に隣の部屋の小娘は何かとお兄ちゃんを狙ってくるからボクもしっかり見張っておかないと。

「その服でこの部屋を出たらまた碧海ちゃんにからかわれちゃうんだからね〜」
「別に緑川に何思われたってどうでもいいよ。……じゃなくて、実はお前も女だろ! 俺が着替えてるのに少しは恥ずかしいとか思わないのかよ!」

 何をいまさら。本当に呆れて姑息な溜息しか出てこないよ。

「知らないよそんなの。事実関係的に確かにその可能性が高いけど、ボクは生まれたときからボクでしかないし、女として育てられた記憶だって一ミリもないよ。そんな哀れな美少女が『君は女だ』とか突然言われたところで、無謀としか言いようがないよね?」
「お前のその姿が『美少女』であるかは議論の余地があるけどな」
「でも今のお兄ちゃんのその態度、女の子に対してデリカシーがないと思わない?」
「今自分で『女と呼ばれるのは無謀だ』とか言ったばかりだよな!?」

 ぷんぷん怒ってるお兄ちゃんは嫌いだ。イケメンのかっこよさがそれこそ半減してしまう。
 だけどこうやってお兄ちゃんと喧嘩したことは一度だってなかったから、ボクは楽しくて仕方なかった。これまでたとえお兄ちゃんが苦し悩んでいた時だって、手を差し伸べることすらできなかったんだから。

 そんなボクを解放してくれたお兄ちゃんには、本当に感謝してくれてるんだよ?

「それより『ご主人様』のところに戻らなくていいのかよ?」
「え。只今絶賛家出中〜」
「家出って、そもそも隣の部屋だろうが」

 ま、ボクのこの入れ物を作ってくれた隣の部屋の小娘にも感謝はしてるんだけどね。

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セピア色の傘立て 007『姉と弟と過去と未来』

 夜空はまだ厚い雲に覆われているけど、ところどころ雲の隙間から星が煌いている。
 芸能事務所『カスポル』の建物の三階は居住区になっていて、両親と私、そして隼斗がここに暮らしている。もちろん私と隼斗の部屋は別々で、だけど私が隼斗の部屋に無断で侵入しても、隼斗は一度だって怒ったことはない。彼が無頓着なだけかもしれない。

「……ねぇ。私がアイドルになるって言ったこと、やっぱし怒ってる?」

 隼斗は部屋のベランダで、ぼんやり星の数を数えてるようだった。曇ってばかりで本当に数えるくらいしか見えないけど、私の部屋にはベランダがないからちょっぴり羨ましくも思えた。

「別に」

 たった一言。それだけじゃ言い表せない何かがあるのは明白なのに。

「だけど、私だって怒ってるんだから……」
「何をだよ?」

 このままでは隼斗の態度と無愛想な言葉の撃ち合いで、また喧嘩になってしまう。それでも隼斗に言いたいことが山ほどあるのは事実だ。

「隼斗が役者を辞めるって言ったこと」
「…………」

 ここで黙られるのも卑怯。まるで私が隼斗を虐めてるかのようにも思えてくる。

「そもそも辞める必要なんて本当にあった? 隼斗は何も悪いことしてないのに」
「別に、そういうのじゃねーよ」

 だったらどういう理由なのだろう? そんな私の疑問など何一つお構いなく、隼斗はまただんまりを決め込んでしまう。頑固でどうしようもない性格なのは、幼い頃から変わってないのだ。

「ねぇ隼斗。やっぱし隼斗は、私のことが嫌いなの……?」

 それがますます私を不安にさせる。これだって私が小さい頃から何も変わってない。

「私が頼りないから……隼斗に迷惑ばかりかけているから……」
「だからそういうのじゃないって言ってるだろ!」

 隼斗が語気を強めたせいで、風船が割れたようにしゅんとなる。彼が私に振り向いてくれたことなど一度だってなかった。姉として頼りないのは間違えない。あんな事件、私一人で解決させるべきだったのに、隼斗を巻き込んでしまった。そのせいで大好きだった隼斗の演技を、もう見れなくなってしまったのだから。

 私だって本当は、隼斗と喧嘩なんてしたくはないのだ。

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エーデルシュティメ 011『現実世界に棲むAIの葛藤』

「なぁ。お前は何者なんだ? なんで俺の妹の名前を……」
「ボクにだってわからないことを、お兄ちゃんに答えられるわけないじゃん」

 寮へ戻ると、ボクたちを待ち構えていた風のお兄ちゃんに間もなく捕まってしまう。もっとも呼び止められたのは美少年系美少女として校内でも名高い透ちゃんの方じゃなくて、ボクだけだったみたいだけどね。もう少しお兄ちゃんも同世代の女子に関心持った方がいいと思うんだけど、どうかな?

「そんなの答えになってるのかよ? お前はもしかして……」
「お兄ちゃんの言いたいことは大体想像つくけど、だから言ってるじゃん。これはボクにだってわからないんだよ。それよりお兄ちゃん。いつも胸につけてたペンダントを最近見ないけど、あれどうしたの?」

 その質問がボクからお兄ちゃんへの答え。高校に入ってしばらくして、あのペンダントを見なくなった。

「あれは…………もう何かが、いないと思ったから」

 お兄ちゃんのその答えもきっと正解で、その言葉に全てが詰まっているのだとボクも思う。互いの答えが一致したことを確認すると、お兄ちゃんはそそくさと逃げるように去ってしまった。少し顔を赤らめていたように見えたのは、ボクの思い過ごしかも知れないけど。

「言われてみると、最近確かにあのペンダントをつけてる様子はないですわね」
「ペンダント……?」

 だけど透ちゃんだけは相変わらずで、お兄ちゃんの変化に気づいてもなかったようだ。まぁお兄ちゃんがペンダントを身につけなくなったのは高校へ入って間もない頃のことだし、その頃の透ちゃんは全然余裕がなかっただろうから。

「ちょっとおねえ様! あのイケメン君を本気で狙ってるのでしたら、もう少しちゃんと寄り添わないとダメですよ!!」

「だからそういう話は今日はどうでもよくて……」
「どうでもいいことなんてありゃしません! おねえ様がそんな態度だからいつになっても何も進展しないんじゃないですか!!」
「ごめん。やっぱし今日は貴女を追い出してもいいかな……?」

 そんなことは当然透ちゃんも自覚している。透ちゃんが本気でお兄ちゃんを狙っているのかはさておき、同じ年の異性として自分の近くにいる存在、その人の役に立てるのなら精一杯力になりたいと思える存在。だって、それが透ちゃんの初めてなんだろうからね。

 ……ところで突然現れたこの人、誰だったっけ?

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セピア色の傘立て 006『自分を嫌いな彼女がアイドルになる資格』

 外へ出ると、冷たさの元凶でもあった雨の音はすっかり止んでいた。
 あいつがアイドルデビューするという件は、緑川が『やりたくない』と拒絶したことにより、一旦保留が決定する。すると星乃宮楓と名乗っていた彼女は、忽然と姿を消してしまった。まるで幽霊が突然姿を現し自ずと消滅したかのような、そんな気配さえあった。これまで数多のタレントを育てた実績のある社長でさえ、彼女の持つ独特の空気感には呆然とするしかなかったようだ。

「…………」
「……なぁ、お前は」

 俺はと言えば、緑川を送り届けるよう社長に頼まれた。もっとも今緑川が住んでる場所は、すぐ近所にある高校の学生寮だったらしい。徒歩で十分くらいといったところか。その途中、緑川は考え事をしているのか、ずっと俯いたまま俺の隣を歩いているけど。

「ねぇ月島くん。こんな可愛い美少女に『お前』って呼ぶのはデリカシーがないと思うよ?」

 だが彼女を少し心配していたつもりが、そうあっさり返されてしまう。

「ごめんね。君の大好きな遥華ちゃんの役に立てそうもなくてさ」
「いや。勝手に巻き込もうとしてるのはうちの事務所の方だし」
「……それもそっか」

 冗談もさりげなく交えながら、自分というものを覆い隠すように、緑川はいつでも笑っているんだ。

「でも、なぜそんなにアイドルをやりたくないんだ?」

 すると緑川は、俺の横顔をじっと伺ってくる。またデリカシーがないと言われるのだろうが、その程度のことは承知の上だ。緑川が心の奥底から笑えば、美しい純白の華を咲かすことができるはず。

 だから俺は緑川にアイドルをやってほしい。あいつだってそれを願ってるはずだ。

「ふふっ。きっと理由聞いたら君もどん引きすると思うよ? それでも聞きたい?」
「あ、ああ……」

 正直なところ、昨日から星乃宮という女子に遭遇して、これ以上何も驚かないと思っていた。

「わたしね。同じ年の男の子と、ひとつ屋根の下で同棲中なんだ」

 しかし、その見積もりはやや甘かったようだ。
 これ以上ない悪戯な笑顔は、俺の心臓を撃ち抜いたまま、全身の力をすっと奪っていったんだ。

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エーデルシュティメ 010『AIが生み出す幸せと不幸』

 そそくさと帰ってしまったお兄ちゃんの顔は、やはり機嫌を損ねたままのように見えた。
 だけどボクだってこの状況を理解できてないんだ。ボクの正体を問われたところで、そんなの返せるわけがない。わかっていることは、お兄ちゃんが生を受けたのと同時に、ボクもこの世界に現れたということ。何もできない理不尽な時間だけが、無意味に流れてきただけなんだから。

 でもこれだけは言えるよ。ボクはお兄ちゃんをいつでもずっと見守ってきたんだって。

「あ、あの……」
「ああ、ごめんごめん。とにかくその辺へ適当に座ってよ」

 お兄ちゃんが去った後の霧ヶ峰先生の研究室は、空虚な沈黙だけがあった。透ちゃんもきょとんとするばかりで、一体何が起きたのか、全然頭の整理が追いついてないようだ。

「コーヒーと紅茶、どっちにする?」
「あ、じゃあコーヒーで」

 そんな透ちゃんを見かねたのか、霧ヶ峰先生は優しいさりげない声をかける。コーヒーの粉を紙の上へ落とし、湧きたての熱湯で少しずつドリップしていく。やがて研究室には甘い香りが漂い始めてきた。

「コーヒー好きなの?」
「あ、いえ。たまに深澤くんが淹れてくれるコーヒーが美味しくて、それで……」

「そっか。ちなみに、彼にコーヒーの淹れ方を教えたのも僕なんだけどな」

 うん。その光景ははっきり覚えてる。お兄ちゃんが毎日ここに引き篭もっていたのは、ちょうど今から一年くらい前のこと。当時中学生だったお兄ちゃんはコーヒーなんてもちろん飲んだことなくて、先生がそのことを気づかずに無理やり飲ませていた気がする。最近こそお兄ちゃんは生意気に『ブラックもいいけど疲れを取るには砂糖が必要』とか言うようになったけど、最初の頃は砂糖だけはおろかミルクもたっぷり入っていたし。

「深澤くんにAIのことを教えていたのも、先生なんですか?」

 透ちゃんの顔はまだどこか緊張が混ざっている。それに呼応するように先生はゆっくりと首を横に振った。

「僕が大樹君に教えたのはAIじゃなくて、医療工学についてだよ」

 そうなんだ。霧ヶ峰先生は元々はお医者さんであって、AIの先生でもなんでもない。ただAIの研究成果を活用しているというだけで、AIそのものに興味あるわけではないんだよね。

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