ここは、とある高層ビルの最上階。狭い廊下に設置された窓からは、紅い夕日が眩しく差し込んでいた。久しぶりにビルの影に囲まれた都心の街へやってくると、圧倒的な世界の広さというものを思い知らされる。
……あ、ボクが以前いつ東京にやってきたのかって話は、もちろんヒミツだけどね。
「カメレオンくんもなんだか楽しそうだね」
「透ちゃんほどじゃないよ。さっきからずっと胸がドキドキしてるし」
透ちゃんは小さく笑って返してくる。透ちゃんの胸ポケットの中にいると、温かい体温と心臓の鼓動がボクの胸の奥まで響いてくるんだ。音のリズムも常に変わっている。今日の音は、明らかに楽しそうなそれなんだから。
「だってあの有名な霧ヶ峰先生だよ! やっと先生に会えるんだから」
「別にあの人、そんな大層な人じゃないと思うけどね」
「またそんなこと言う。カメレオンくんだって自分の生みの親に一度も会ったことないでしょ?」
霧ヶ峰先生というのはAI技術の最先端で研究している学者さんで、ボクのこの身体も基礎設計は霧ヶ峰先生の論文を基に創られているのだとか。透ちゃんにとっては『心の師匠』とやららしく、今日はそんな先生との初対面で、浮かれ気分なのもわからなくはない。
だけど正直なところ、実験してる時以外は天然の入ったただのボケたおじさんって具合で、見た目は全くと言っていいほどそんな偉い学者さんには見えないんだよな。
「ああっ、透ちゃん。この部屋だよ。行き過ぎちゃってるから」
「あ、ごめん。てかカメレオンくんはよく気づいたね?」
浮かれてたせいだろうか。透ちゃんは目的の部屋の前を通り過ぎて、隣の部屋の前まで進みかけていた。もっともこの研究棟の部屋の表札には部屋番号しか書かれてないし、初見殺しと言われても仕方ないんだけどね。お兄ちゃんも初めてここに来た頃は何度も通り過ぎてたし。
「失礼します」
透ちゃんはノックして畏まった挨拶をすると、静かにそのドアを開く。
「お、次の来客が来てしまったみたいだね」
だけど先生の方は先客とまだ会話中だったようで、僅かに慌てた素振りを見せていた。しかもその先客というのは透ちゃんもよく知る人物だったりするわけで。
「え。深澤くん???」
……ま、ボクは知ってたけどね。
「君たち、同じ学校の生徒さんだったのか」
男性の声にしてはやや高めの声が部屋に響く。といってもこの部屋はどちらかというとどこぞの社長さんが一日ずっと本を読んでそうな部屋のそれで、ここで何かを研究している姿はあまり想像できそうにない。
「あ、はい。同じ学校のクラスメイトと言いますか……」
透ちゃんはもぞもぞ返そうとするものの、その続きが出てこなかった。さすがにお年頃の女子高生の口から男子高生と同じ部屋で暮らしているなどと口に出すのは気が引けるのだろう。わからなくもないけど。
「さっきも話しただろ。俺と同部屋の女子がいるって」
「ああ。じゃあ君が大樹君と同棲してるという女子高生さんか」
「だから同棲じゃないって!!」
が、霧ヶ峰先生の感覚は案の定とも言うべき、無頓着そのものだった。ごく自然に『同棲』というNGワードを口から出してしまう。だけどあれが同棲じゃないというなら何が同棲だと言うのだろう。ボクには全くわからない話だ。
「なんだ。礼儀正しそうなお嬢さんじゃないか。大樹くんが一人暮らしをしたいって言うから、てっきり同棲している女子に不満でもあるのかもと思ってたけど」
「別に僕と深澤くんは特別に仲が良いわけでも悪いわけでも……え、一人暮らし??」
「先生、今その話は……」
お兄ちゃんは慌てて先生の話を中断させる。だけど完全に手遅れってやつだ。お兄ちゃんが寮から出ていくって、そもそもどういう了見だろう。それはボクにとっても看過できない話なんだけど。
「そうか。まだ秘密の話だったね。それはすまなかった」
「いえ。いずれは上杉さんにも話しておきたかったので……」
話がトントン進んでしまう状況に、透ちゃんの顔も青ざめてキョトンとしている。透ちゃんにとってのお兄ちゃんって、きっと多くの意味でこれが初めての経験のはず。だからどう受け止めていいのかわからないのだろう。ってなんだか小っ恥ずかしい話でもあるけどね。
「でも研究から離れて気分転換をしたいという話であれば、一人暮らしと言わず、うちに来たらいいんじゃないか? うちには大樹君と同じ年の双子の娘が二人もいるし」
「いいえ。そういうのは絶対にもう勘弁です」
「せっかく可愛く育ったし、どちらかを大樹君に貰ってくれるのなら父親として大歓迎なんだがな」
「そういう問題ではなくて、間違えなくそれ気分転換にならないですよね?」
「あ、あの……!!」
顔を夕日に照らされた透ちゃんの語尾だけが急激に強くなる。話がここまで進むとさすがに透ちゃんも黙っていられないようだ。そりゃ親に勝手に決められた許嫁っぽい何かという話なら、透ちゃんだって同じ状況だしね。つまり碧海ちゃんも含めると、お兄ちゃんにはそういう関係の女子が四人もいるってことか。
……それ、本当にどういう状況? さすがにボクもドン引きなんだけど。
「ねぇ深澤くん。研究を離れたいって、どういうことなのかな?」
透ちゃんは何とか頭をひねって質問を絞り出す。その声は少し気弱な感じもしたけど。
「AIの研究を辞めたいと思ってる」
お兄ちゃんはぼそっと呟いた。答えたと言うより、呟いたに近い反応。実はお兄ちゃん自身にそう答えただけかもしれない。
「辞めたい? なんで……?」
「AIなんて、所詮は人を不幸にするだけの道具に過ぎないから」
「そんなことって……」
何か、どこか喉の奥の方がこそばゆくなってくる。
「もう嫌なんだよ! 人を助けたつもりが全然そうはなってなくて、あんな風に睨まれるのは!!」
もやもやした雪のような丸い粒が、重く降り積もっていく。それはやがて冷たい塊となり、ボクの胸にずしんと残った。いずれは耐えきれなくなり、中で何かが崩壊してしまうだろう。
「AIが人を不幸にする道具って……?」
「だってそうだろ。AIなんて所詮人間が生み出したものの模造品でしかない。そこに温かい感情なんてどこにもないし、人を優しくすることもできっこないんだから」
「仮にAIが模造品だとしても、それで人を幸せにできるのなら、それでいいんじゃないかな」
「だったら模造された人間の方はどうなるんだ? あんな感情のないもののために、人間が血反吐を吐きながら創り上げたものを簡単に盗まれてもいいものなのか?」
「違う。そうじゃなくて、AIを活用する方法なら他にも……」
「違くない! どんなAIだって、人を笑顔になんてできるわけないんだ!!」
笑顔……。壊れきった脳裏に、幼すぎた少女の冷たい笑顔が通り過ぎていった。
「ねぇお兄ちゃん。それ、ひょっとしてカエちゃんのことを言ってる……?」
ボクは気づくとそう尋ねていた。咄嗟だったし、何も考えられなくなっていたのだろう。
「……お前は……誰だ!?」
だからお兄ちゃんがそう疑問を抱くのも当然のこと。いよいよ誤魔化しきれないフェーズまで移行してしまったのだとボクも自覚する。
でもボクだって自分が何者なのか百パーセントわかってるわけでもないし、どちらにしてもお兄ちゃんに話せる答えなんてどこにも存在しないわけだけど。
だけどそろそろ透ちゃんが作ったAIだって嘘は、返上しないとダメかもだね。