しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

エーデルシュティメ 008『紅い夕日と碧海の顔』

 江ノ島と対峙した西浜と呼ばれる小さな海岸。夏には多くの海水浴客が集うこの場所も、今は至って静かな場所だ。近くも遠そうにも見える江ノ島灯台には、その隣を紅い夕日が沈みかけていた。
 そんな風景の片隅に、ぼんやり一人の少女が立ち竦めている。白い砂浜に思い通りの絵を描けないまま、行き来する波の音だけをただ眺めているようだ。

「あいつ、本当に研究熱心だよな」

 無謀にもそんな女の子に何気ない声をかけたのは、お兄ちゃんだ。

「ほんとだね。せっかく江ノ島に来たんだから、少しは勉強から離れたらいいのに」
「ああ。さっきまでアニメの話をしてたかと思えば、スイッチが入るとすぐあれだもんな」

 お兄ちゃんが『あいつ』と呼んだ視線の先には、海の音をポータブルマイクで集音している透ちゃんの姿があった。自分の声と波の音を同時に録音して、その反響音を収録してるんだってさ。ボクにはそれがどういう目的があるのか一ミリも理解できないけど、そんな地道な研究成果物の一つがボクの声ってわけだから、少しは感謝はしておかなきゃだね。

「ところでお前は元気なさそうだけど、大丈夫か?」
「え……?」
「いや、あいつのペットも最近緑川が元気なさそうとか言ってたらしいから」
「わたしがどうとかより、たかがペットの話を鵜呑みにしてもいいことないと思うよ?」

 たかがペットで何が悪い。ボクのことすぐ除け者扱いするから碧海ちゃんは大嫌いなんだ。
 今だって薄汚い笑みをお兄ちゃんへ投げかけている。どこか弱々しそうで、すぐに嘘だとわかるそれ。てかボクのお兄ちゃんにそんな不潔な顔を向けないでほしいんだけどな。


「わたしさ。歌手デビューはやっぱり断ろうかって悩んでるんだ」

 だけどその顔はお兄ちゃんに対してではなく、砂に打ち付ける波に向けてなのかもしれない。生温かさと冷たさを同時に話しかけてるようにも思えた。

「断るのか? せっかくのチャンスだと思うが」
「だってそうなったら自分の知らない相手にこの笑顔を向ける必要があるんだよ? なんか気持ち悪くない?」
「少し言ってる意味がよくわからないんだが……」

 碧海ちゃんはそうとだけ答えると、それ以上はくすくす笑うばかりで何も返そうとはしなかったんだ。

「だけどお前さ。いつもそんな下手くそに笑ってて疲れないのか?」

 そこへ掌返しとも思えるお兄ちゃんの言葉が刺さる。碧海ちゃんも少し意表を突かれたようだけど、またすぐ砂浜と波の境目あたりを浮舟のような視線で見つめ、朧気な瞳を浮かべていた。

「下手くそって、どういう意味かな?」
「『自分の知らない相手に』って言うけど、それは普段の緑川と何が違うのかって話だ」

 碧海ちゃんの口元がほんの僅かに緩んだ。小さなえくぼがそこから微かに浮かび上がってくる。

「どうなんだろ。わたし馬鹿だし、そういうのあまり考えたことなかったから……」

 怯えているわけでも緊張しているわけでもない。ひょっとしたらお兄ちゃんの温かい声から、逃れられないだけなのかもしれない。

「お前さ、一人で無理し過ぎなんじゃないのか?」
「どこがよ?」
「いつも強がって俺らを振り回していればお前は満足なんだろうけどさ、やっぱそれおかしいだろ?」
「別に何かおかしなところなんてある? 何言ってるか全然わからないな」
「そういうとこじゃねえのか? すぐに話をはぐらかそうとする」
「はぐらかしているのはどっちかな? わたしのこと何もわかってないくせに、単に大樹くんが求めてる理想のわたしを押し付けてるだけじゃないの?」
「俺が求めてるお前……?」

 互いにちぐはぐな感情のもつれだけが、波と砂が擦れ合う音の合間にくっきりと浮かび上がった。

「なんだもう終わりなんだ。別にいいけどね。わたしのことなんて大樹くんにはわかりっこないだろうし」

 そして碧海ちゃんは勝手に合点したかのように、そのまま話を終わらせようとするんだ。

 白い砂浜に強い光が反射して、それを嫌う生物たちは砂の中へと隠れてしまう。空は青くて広いのに、盲目な生物たちはそれさえ遮断してしまうんだ。太陽というスポットライトの下で、自分の姿を照らそうとはしない。貝殻の内側に閉じこもって、ひっそり毎日を暮らしているだけ。
 だけど仕方ないよね。それが定めと呼ばれるやつで、運命ってやつなんだからさ。

 だからボクはその両腕を広げ、碧海ちゃんの背後から肩をぎゅっと包み込んだんだ。
 小動物のようにびくっと固まってしまう華奢な身体が、やっぱり小刻みに震えているのを感じる。

「ちょっ……。どうしたの?」

 柔らかい身体から体温を感じて、碧海ちゃんも小さな女の子なんだなって。

「わかるわけないじゃん! 碧海ちゃんの言う碧海ちゃんらしさなんてさ」
「え? 大樹くん……?」
「そんなの人に頼って見つけるものじゃないもん。自分ですべきことを他人に委ねるなんて卑怯だよ」

 だからお兄ちゃんの腕へさらに力を加え、冷たくなったその身体をもう一度温めようと試みるんだ。

「碧海ちゃんは碧海ちゃんでしかないし、ボクはボクでしかないでしょ?」
「えっと、大樹くん……なんだよね?」

 お兄ちゃんよりは勘の鋭い碧海ちゃんだけど、今はそんなのどうでもいい。不純なその手で、ボクの大切なお兄ちゃんに触れてほしくないんだから。

「だったら見栄ばかり張ってないで、自分のしたいことをしたいようにすればいいだけじゃん!」
「…………」

 お兄ちゃんの両腕でがっしりホールドされてしまっている碧海ちゃんの身体は、その瞬間少しだけしゃんと立ち直った。振り返ってお兄ちゃんの顔を見ようと試みたようだけど、慌ててボクはもう一度力を強め、そうはさせじと拒んだんだ。困惑したお兄ちゃんの顔なんて今は絶対見られてほしくないからね。

「逃げてばかりの碧海ちゃんは嫌いだよ。だけど碧海ちゃんなら碧海ちゃんらしくいられるはずだよね?」

 そこまで言って、ボクは与えて続けていた力をすっと緩めた。それから反発するようにお兄ちゃんと碧海ちゃんの身体はするする離れ、何事もなかったような微妙な距離が完成する。

「あ、あの……今のって……?」
「ご、ごめん。今のは……なんだったんだ?」

 お兄ちゃんも否定したければはっきりすればいいのにね。こういうところが昔から冴えてないんだよな。

「二人ともどうしたの? 急に恥ずかしそうに距離なんか取っちゃってさ」

 そこへ一部始終を全て見てましたと言いたそうな透ちゃんがこっちへ戻ってきた。その発言のせいで碧海とお兄ちゃんはさらに距離を取り、二人の間のぽっかりとした空間はちょうど人間の身体一人分くらいまで広がる。互いに顔を逸し、まるで喧嘩したばかりのカップルそのものに見えなくもない。

「な、なんでもないって」
「あ、ああ……」

 透ちゃんの笑顔はなんとか疑いの目を隠そうとしているようにも見えた。ボクも透ちゃんの気持ちに気づいてないわけじゃないけど、今日は他に手段がなかったんだ。ごめんねご主人様。

「わたしさ。アイドルデビューすることに決めたよ」

 碧海ちゃんが夕日に向かって宣言したのは、その瞬間だった。

「アイドル……? 歌手じゃなくてか!?」
「碧海さん、アイドルになるんだ。うん。そう決めたのならそれでいいんじゃないかな」

 間もなく落ちかけようとしていた夕日に照らされ、三人の姿は赤く染まっている。ぎこちなささえ初々しいその顔々は、明るい影によって反射してしまい、ぼんやりしてしまっている。

「でももしこれが間違えだとわかったら、大樹くん責任取ってよね!」

 碧海ちゃんのそれは空に溶けてしまいそうなほどすっきりしていた。女優の演技などではない、ありのままの碧海ちゃんの顔。今度こそ本当に人気女子高生声優として羽ばたいていけそうな、そんな気配すらある。

 だけどお兄ちゃんはボクのものだから、その程度じゃまだ許してあげないんだからね!