しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

セピア色の傘立て 001『雨上がりの桜の夢』

 昨夜は静かな雨だった。雨の雫がこびりつき、ピンク色の花弁は僅かに光り輝いていた。
 同時に雫の重みのせいで、儚く散るその日も少し早まってしまったかもしれない。

 ……いや、そんなの愚問だ。所詮は生まれた時から決められた運命でしかないのだから。

 薄水色の空に向かって、腕をぐっと伸ばしてみる。届くはずもない右手を朝日に晒した。
 微かに残る雨の匂いは身体の筋肉を縮こませ、何もできない俺に諦めることを強要する。

 もうここには何も残っていない。視線は自ずと足元の地面へと落ちていった。

「あれ? 先客がいる。ここはあたしのヒミツの場所だったはずなのになぁ〜」

 美しく研ぎ澄まされた声に驚かされ、俺ははっと後ろを振り返った。そこにあったのは、俺と同じ茜色のリボンを付けた女子高生の姿だ。茜色ということは俺と同じ学年、今日この学校へ入学したばかりということだろう。この場所は俺も今朝見つけたばかりの裏庭。滅多に人が通る気配もなくて、人目につくこともほぼありえないって、そう思っていたはずなのに。


「あたし、受験した日に通りかかって、ここいい場所だな〜って目をつけてたん」
「いい場所……か?」
「うん。静かで絶対に一人になれる場所。考え事するときに便利そうでしょ」
「よくわからんが、それってそんなに便利なことか?」

 考え事か。確かに俺もそれっぽいことをしていたから否定する気は起きない。

「だって、ここで人を殺してここに埋めたとしても、誰にも見つからなそうじゃん?」

 だけどこの少女の考え事とは、俺の想像を遥かに超えてしまっていた。煌めくような瞳の奥底に、殺意に似た冷たさがきらりと光る。俺の顔はみるみると引きつられていく。

「お前、人を殺したいと思ったことなんてあるのか?」
「君だってあるでしょ? そんな顔してるもん」

 そして何故か俺も殺人の共犯者にされてしまう。……あながち間違ってないかもしれないが。

「人なんて、たった一本のナイフで簡単に殺せるんよ。ちょろいもんだよ」
「…………」
「だけどさ、問題はその後なんだよね。人が死ねば、誰かが悲しむ。自分とは関係ない人だと思ってても、葬式のときにわんわん泣いたりするの。ほんと笑っちゃうくらいにね」

 まるで最近その光景をどこかで見てきたばかりのような言い草だった。彼女は上空を見つめ、その途中にある桜の木に目が留まる。俺もその視線に釣られたせいで、一面の桃色の絨毯が完全に視界を覆ってきた。徐々に色は黒く染まっていき、まるで血の雨のようなそれへと変わっていくのを感じた。

「あたし、志望してた高校に落ちてこの高校に入ったんだ〜」
「あ、ああ……」
「本当はお兄ちゃんと同じ高校に入りたかったんだけど、それが叶わなくてさ」

 さっきまでおぞましい話をしていたかと思えば、今度は一転のブラコン宣言である。花の色は途端に朝の明るさを取り戻し、肩の緊張が急激にすっと抜けていく。
 彼女はずっと笑っている。まさか彼女の殺したい相手というのは自分の兄ということはないだろう。だけど思わずそう考えてしまいそうなほどに、殺人の話をしているときも、兄の話をしているときも、ずっと変わらない顔のままだった。

 まるでそれら全てが『笑顔』という一本の紐で、長く繋がっていると思えるほどに。

「でも君はなんでいつまでもそう笑っていられるんだ?」

 だから俺のこの疑問は必然のように思えた。願いが叶わなかったはずなのに、それでも笑っていられる理由。俺も、あいつも、あの事件の日以来そんな顔をずっと忘れてしまっているから。時間が止まり、籠の中の時計の針だけが今も動き続けているから。
 絶望の淵というやつは、いつまで今日という時間を破壊し続けるのだろうかと。

「大切なのはさ、明日その人が笑っていることなんじゃないかな」

 彼女は考える素振りも見せず、ただ自然にそう発しているように思えた。

「明日……?」
「そう。明日もみんなで笑っていること。そう考えれば簡単なことのようにも思えるでしょ?」

 淡々と話すその様は、ここに来てからずっと表情が変わらない。ここに彼女がいるはずなのに、まるでここには最初から誰もいないような、遠くの場所にいる得体のしれない何かと話しているような感覚。
 でもふと気づいてしまったんだ。つまりそれは、そう思えるだけだってことにも。

「君、あたしと同じクラスの月島君でしょ?」
「そうだけど……てか、同じクラスだったのか。そしたら、君の名前は?」
「あたしの名前なんか覚えても得することなんて何もないよ」
「え……?」

 すると彼女は俺に右手を振って、バイバイを示してくる。先客のいるこの場所には最初から用などなかったようで、後腐れもそれ以外も何もなかったかのよう。ぴゅんと去ってしまった。彼女は俺の名前を覚えていたのに、俺は彼女の名前を覚えていなかった。もしかしたらそれに腹を立ててしまったのだろうか。

 ひとりこの場所に残され、俺はもう一度空を見上げる。その途中の桜の木の枝に視界が止まった。
 黒か茶色か判別もできないほどのそれは、歪な格好を見せていた。ただし周囲をピンク色の光が覆っているせいで、薄っすらとした白い霧がそれ以上の視界を遮っているかのようだった。

 明日こそ俺は、笑っているのだろうか。