しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

セピア色の傘立て 002『セピア色の傘立て』

 彼が飛び出していった玄関には、夕方から降り続く雨の音と、一本の傘が残されていた。
 今頃彼はずぶ濡れで、坂道の多いこの小さな街を彷徨っていることだろう。

 なぜこんなことになってしまったのだろう。
 事件があったあの日から、彼と私の時計はくるくる狂い始めた。
 幼い頃からずっと二人で、どんな障壁だって乗り越えてきたはずなのに。
 彼の右手を引っ張って、時には彼の背中を追いかけて。
 これからもずっと、そんな長い時間が続くものだと信じていたのに。

 彼が私の家に引き取られたのは、私達がまだ三つの頃。そんな頃の話、私が何を考えて何を想っていたかなんて、もし記憶全てを留めていたとしたならば、間違えなく奇跡という他ない。だけど彼はぎゃんぎゃん泣いていて、私は小さな頭をフル回転させながら、必死に励まそうとしていたことだけはちゃんと覚えている。事故で両親を一度に失なった彼を、家族ぐるみで親交の深かった私の母が引き取ったのだ。幼かった私が彼と同じ年だったとか、もしかしたらそれも理由の一つなのかもしれない。


「ほら。はやく来ないと置いてっちゃうよ?」
「ちょっと待ってよおねえちゃん」

 同じ年ではあるけど、誕生日は私の方が一ヶ月ほど早い。だから彼は私を『おねえちゃん』と呼んでいた。とはいえそれってやはりどうかしてるし、私はこんな生意気な弟を持った記憶なんて一ミリもなかったはず。ただ、いつも同じ景色ばかり眺めていた私達には、いつしかごく自然のことのように思えていた。小学生の頃は私の方が少しだけ身長も高くて、視界に入ってくる距離も僅かに私の方が長かったかもしれない。
 彼はそんな私をずっと追いかけてきた。記憶の奥底まで、私と彼はずっと繋がったままだった。

 二人で一緒に芸能界入りした理由も、まさにそんな関係から生じた必然的なもの。

「遙香は昔から興味あったの知ってたけど、隼斗くんも本当にそれでいいの?」
「当然だよ。おねえちゃんを守るのはボクしかいないんだから」

 母が芸能事務所の社長だったこともあり、先に芸能界に入りたいと言い出したのは私の方だった。だけど彼も私を追いかけるように、何も躊躇なく芸能界入りを志願したんだ。それが確か七歳の頃の話。小学一年生だった彼が、少しだけかっこよく見えた瞬間だったかもしれない。
 私を守るだなんてさ、生意気にも程があるのにね。

 それから彼と私は、少しずつテレビドラマに出演する数も増えていった。
 初めは名前も知られない子役として。どっちの演技が上手いとか、どっちの仕事の量が多いとか、そんなの元から微々たる差だった。多少名前が売れてきても、私と彼の差なんて本当に些細なもの。

 ……いや、私と彼の間の距離なんて、鼻からどれほど存在したのだろう。

「すごいじゃん。名前のある役がもらえるなんて」
「うん。これまでずっと頑張ってきて本当に良かったよ」

 私が初めてテレビドラマで名前のある役をもらえたのは、小学六年の時だった。
 彼も私もそんな経験はそれまでなくて、念願叶ってようやく勝ち取った、役の中の私の名前。受け取った台本の中にも、初めての役名と私の名前が並んで書いてあった。

「俺も遥香に負けないよう、もっと頑張らなきゃな」
「……え、わたし?」

 名前のある役をもらえたのは、彼より私の方が僅かに早かったんだ。もっともそれから二ヶ月もしないうちに、彼も名前のある役を勝ち取るんだけどね。

「ん? 何かあったか?」
「……ううん、別に。ちょっと驚いただけ」

 役者として互いの成長を喜んだ彼と私。そこに何一つ間違えはなかったはず。
 だけどその時だったんだ。彼が私を呼ぶ時、初めて『遙香』と名前で呼んできたのは。
 それまではずっと、私を『おねえちゃん』と呼んでたはずなのに。

 芸歴という点ではほぼ同じと言ってよい私と彼だが、演技の方向性という点では対象的と言ってよい。
 私はどちらかというと分析型で、彼は明らかな感情型だ。
 台本と向き合う姿勢を比較すれば、それは顕著となって現れる。私は手渡された台本を何度も繰り返し読んで台詞を覚えるのに対し、彼が台本を読むのはほぼ一度切り。恐ろしいことに一度読んだだけで、彼は台詞というものを完璧に覚えてしまう。
 どうやったらそんな技が真似できるのだろうと、一度聞いてみたことがあった。

「簡単だよ。役の気持ちになって台本を読み進めれば、自ずとその台詞しか当てはまらなくなる。そもそも俺には台詞を覚えているという感覚がないしな」

 正直なところ、それのどこが『簡単』なのか、私には理解できなかった。私だって『役の気持ち』になるという作業を怠ってるわけではない。何度も何度も台本を読み、そこに隠された行間を回収しつつ、台詞の一行一行を徹底的に分析する。その中で『役の気持ち』というものを得ていくものだと私は考えている。
 ところが彼はその工程を完全にすっ飛ばすんだ。別に彼がサボっているわけではないことは演技を見れば一目瞭然で、たった一度の台本読みで、熱のこもった演技を完璧に粉してくる。
 言うなれば間違えなく、彼は天才役者と呼ばれる部類だ。

 もちろん彼も全てが完璧というわけではない。彼がなかなか役にハマらずに、苦労している姿も何度も見かけた。私だってそういうことがないわけではないが、正直彼のそれは私以上だ。多少ではあるけど、私の方が仕事がやや多いのも、それが理由かもしれない。

 私はひとりの役者として、ライバルとも呼べる彼に、優越感と嫉妬心の両方を今でも感じている。

「俺、役者を辞めることにしたよ」

 だからだろう。私はこの言葉を言われて、崖から突き落とされたような喪失感が芽生えた。
 玄関から飛び出す後ろ姿からは、彼がどんな顔をしていたかも想像ができない。
 大粒の雨の音だけが私の耳に届き、それ以外は何もかもが灰色に霞んでいく。
 そして私の手元には、ひと粒の涙がぽつりと落ちてきた。

 あの事件がなかったら……。元々は私が巻いた種で、彼は私を守ってくれただけのはずなのに。
 もしあのストーカー野郎に対して、私自身の手でしっかり対処できていたらと悔やんでも悔やみきれない。彼を巻き込む必要性なんて、どこにもなかったはず。事件を防ぐ方法は探せばいくらでもあったはずなのに、私は何もかもを怠ってしまった。

 本当なら姉であるはずの私が、彼を守るべきだったのだ。

『私も役者を辞める。だけど芸能界は辞めない。私はアイドルになるよ』

 もう後ろ姿も見えない彼に、雨でずぶ濡れになってるであろう彼に、チャットでそう書いて送る。
 これはただの反発だ。事実、私のアイドルデビューの話は、以前から事務所の社長である母から相談を受けていた。もちろん乗り気じゃなかったし、ストーカー被害を受けていた私としては、本来選ぶべき選択肢じゃないことも気づいている。間違えなく、真逆の対応であることも。

 だからこそ、敢えて私はこの選択肢を選ぶ。

 灰色の傘立てには、澄み切った青空の色をした彼の傘が残されていた。
 あの事件以来、彼は笑わなくなった。今の彼には笑っちゃうほど、こんな傘似合うはずもない。

 私はそんな彼を許すことはしない。恨み続けて、さらなる絶望へと彼を追いやるんだ。