『私も役者を辞める。だけど芸能界は辞めない。私はアイドルになるよ』
愕然。言葉で表現するなら、恐らくこれに近いだろう。
矛盾。だってそうだろ。ストーカー被害に遭ってたくせに、どうしてアイドルなんかになるんだって。
憤慨。だが誰に対して怒っているのだろう。あいつに? それとも自分に?
ブランコも俺の身体もずぶ濡れの公園。
深緑色の木々に囲まれ、雨の日特有の湿った草の匂いが辺り一面に漂っている。あまり好きではない。
傘も持ってこなかった俺は、乾いたところがどこもない程度に濡れていく。別にそれもいい。
恐らく明日は風邪を引いていることだろう。だからなんだというのだ。
別に俺みたいな人間がこの世からいなくなったって、誰も困りはしないのだから。
「君、こんな寒い公園で滝行でもしてるの?」
弓で弾く弦楽器のような声音が、力強く俺の意識を持っていく。滝行とはよく言ったものだ。
心地よいシャワーのような温もりが、びしょ濡れの耳元に届いてきた。
「なぁ……。俺の事務所で、アイドルやってもらえないか?」
疑問。そもそも何故こんなことを言ってしまったのだろう。
停止していた俺の思考がようやくその言葉に追いついたのは、そう発言した後だったんだ。
「……はい?」
彼女はただ呆然と、間抜けな鯉がぽかんと口を開けたような顔をしている。
前提知識も何もなければ、当然の反応なんだがな。
「君、月島隼斗くんでしょ?」
もう一度落ち着いて、彼女の容姿を確認する。吸い込まれるような円な瞳にはどこか見覚えがあった。
美しい声であるはずなのに、どこか温度を感じない。まるで下手な役者が演技でもしているかのようだ。いや、もしかしたら彼女を下手な役者と呼ぶのはお門違いなのかもしれないが。
「俺のこと、知ってるのか?」
「そりゃあれだけマスコミも騒いでたらね。今の君ってある意味日本一有名な男子高校生じゃないかな?」
「そうかもな。殺人未遂を犯した高校生なんて、注目されて当然だろ」
自分で言ってても虚しくもなる。殺人未遂ともなれば、それじゃただの凶悪な犯罪者そのものじゃないか。だけど俺はこれから一生、その十字架を背負う必要がある。言い逃れなんてできるはずもない。
「だけどそれほど危険な君が、突然わたしをナンパしてくるんだもん。おかしくて笑っちゃうよね」
「別にナンパしたわけじゃねーから」
だけど俺に向かう彼女の視線は、俺を蔑むようなそれではなかった。一周廻ってまるで何かを勘違いしているかのような、どこか狂気的な冷たささえ感じている。
冷たさ……? なぜそれを感じるのだろう。彼女は俺を殺人鬼だと思っているわけではないのか。
「ふふっ。殺人未遂とか言って、月島くんがそんなことできるとは到底思えないけどな」
「そんなの……どう思おうと、お前の勝手だ」
「そうかも。君は君、わたしはわたしだもん。月島くんの気持ちなんてわたしにはわかりっこないよ」
彼女は笑いながら、するすると返してくる。近づいたかと思えばすぐに離れる。のらりくらり。
そもそもこの笑みだって、まるで信用できるそれではない。そもそもこの話のどこに笑う要素があるのか全くわからないからだ。別に彼女が俺と真剣に向き合ってないとか、そういう話でもないはずだが。
「だけど月島くんの演技、わたしは好きだよ。感情表現が豊かで、わたしには絶対真似できっこないし」
「お前、俺の演技を観たことあるのか?」
さも当然とでも言うように、彼女はただただ笑って返してくる。
まるで魔法にかけられたかのように、その笑顔を前に俺はくるくると狂い始めていた。
「だからかな。真っ直ぐな瞳の君が殺人未遂なんて言っても、わたしには全然響かないんだよね」
響くとか響かないとかではなくて、そんなの全然関係なくて……。
「俺は……本当にそいつを殺してやろうと思ったんだ。だけどそれが真実になれば、そいつだけでなく、俺も、あいつも、みんな死んでしまうと思った。だから俺は我慢して蓋をしたんだ。でも本当にそれでよかったのかって、後悔もしてる俺がいる。殺人未遂にならなくても、所詮俺の罪なんて消えるはずもない。だけどあいつの笑顔だけは絶対に守ってやりたかったから」
どうせこんな話をしたところで、彼女には何も伝わらないかもしれない。自問自答。
本来なら話したくもない、記憶から完全に抹消したいほどの事件であるはずなのに、気づいていたらおよそ全てを話していた。つい一ヶ月前の、巷でも僅かに話題になったあの事件のことを。
「そうだよ。月島くんが遥香ちゃんをしっかり守ってくれたから、今もみんな生きてるんでしょ?」
「生きて……?」
そんな彼女は、大気中の全ての熱を溶かすように、冷めきった言葉を続けてくる。
「人はナイフ一本で殺せるけど、簡単に殺すなんてできないでしょ? あのストーカー野郎だって今もどこかで図太く生きてるし、君たちの心臓だってまだちゃんと息してる。だったら今やるべきことって、失われてしまった君たちの心を、胸の内側にある心臓が取り戻せばいいだけじゃないかな」
やがてぽっかりと空いてしまった空間に、声音の内側の温かさはじわじわと染み込んできたんだ。
「遥香ちゃんの夢と、月島くんの願い。それって今はただ二人とも見失ってるだけだと思うんだ」
「どうしてそう思うんだ……?」
ここにいる自分。笑顔を失ったあいつ。
「今の君の顔を見てたらすぐにわかるよ。遙香ちゃんと喧嘩でもしたんでしょ?」
別に喧嘩をしたわけではない。何かがすれ違ってしまっただけ。何もかもが思うように繋がらなくて、あいつとの距離感がわからなくなってしまっただけ。
「さっきのアイドルデビューの話、聞いてあげてもいいよ。遥香ちゃんとも久しぶりに会いたいしね」
「久しぶりにって、君はどこかで俺らと……?」
ぼんやりとしていた彼女の顔が、ようやく少しずつ鮮明に映り始めた。海に近い濃紺色の傘を手に持って、すらりと長く伸びた黒い髪と共に、彼女の瞳が輝いている。何もかもを飲み込んでしまいそうな薄ら笑いは、あいつと同じ、女優の匂いがしてきた。
「わたしは緑川碧海。月島くんとも一度だけ共演したことあるはずなんだけどな。全然覚えてくれてないとか、わたしの方がショックで恥ずかしくて死にたいくらいだよ!」
「すまん。俺、人の顔覚えるのが大の苦手だから……」
……ああ、だいぶ思い出してきた。
「ほら、行こう。このまま傘も差さずにここにいたら、本当に明日風邪引いちゃうよ」
「…………」
「遥香ちゃんと仲直りするんでしょ? わたしも間に入ってあげるからさ」
やはり彼女が笑う理由なんてどこにもない。それなのに彼女はずっと笑っている。
作り笑いとか、そういう類のものなのだろう。あいつと同じ、彼女も女優なら。
そしてその勢いに飲まれてしまう。そもそも俺は最初からどこへ向かうべきだったのか。
だからかもしれない。彼女なら道を見誤ってしまった俺とあいつに、灯りを照らしてれくれるのではと。