しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

セピア色の傘立て 006『自分を嫌いな彼女がアイドルになる資格』

 外へ出ると、冷たさの元凶でもあった雨の音はすっかり止んでいた。
 あいつがアイドルデビューするという件は、緑川が『やりたくない』と拒絶したことにより、一旦保留が決定する。すると星乃宮楓と名乗っていた彼女は、忽然と姿を消してしまった。まるで幽霊が突然姿を現し自ずと消滅したかのような、そんな気配さえあった。これまで数多のタレントを育てた実績のある社長でさえ、彼女の持つ独特の空気感には呆然とするしかなかったようだ。

「…………」
「……なぁ、お前は」

 俺はと言えば、緑川を送り届けるよう社長に頼まれた。もっとも今緑川が住んでる場所は、すぐ近所にある高校の学生寮だったらしい。徒歩で十分くらいといったところか。その途中、緑川は考え事をしているのか、ずっと俯いたまま俺の隣を歩いているけど。

「ねぇ月島くん。こんな可愛い美少女に『お前』って呼ぶのはデリカシーがないと思うよ?」

 だが彼女を少し心配していたつもりが、そうあっさり返されてしまう。

「ごめんね。君の大好きな遥華ちゃんの役に立てそうもなくてさ」
「いや。勝手に巻き込もうとしてるのはうちの事務所の方だし」
「……それもそっか」

 冗談もさりげなく交えながら、自分というものを覆い隠すように、緑川はいつでも笑っているんだ。

「でも、なぜそんなにアイドルをやりたくないんだ?」

 すると緑川は、俺の横顔をじっと伺ってくる。またデリカシーがないと言われるのだろうが、その程度のことは承知の上だ。緑川が心の奥底から笑えば、美しい純白の華を咲かすことができるはず。

 だから俺は緑川にアイドルをやってほしい。あいつだってそれを願ってるはずだ。

「ふふっ。きっと理由聞いたら君もどん引きすると思うよ? それでも聞きたい?」
「あ、ああ……」

 正直なところ、昨日から星乃宮という女子に遭遇して、これ以上何も驚かないと思っていた。

「わたしね。同じ年の男の子と、ひとつ屋根の下で同棲中なんだ」

 しかし、その見積もりはやや甘かったようだ。
 これ以上ない悪戯な笑顔は、俺の心臓を撃ち抜いたまま、全身の力をすっと奪っていったんだ。


「同棲って……」
「でも君だって遥華ちゃんと同棲してるでしょ? それと似たようなもんだよ」
「さすがにそれは違うんじゃないか?」

 俺の場合、あいつの母親が当時幼すぎて身寄りがなかった俺を引き取っただけという話。もはや家族みたいなもんだし、今更あいつと同棲してると言われてもぴんとこない。そんな単語これまで考えたこともなかったが、他人から見ればそう見えてしまうのかもしれない。

「ま、それもそっか。わたしの場合は君と違って、好きな相手と同棲してるわけでもないしね」
「別に俺はあいつをそんな対象として……お前は違うって言うのかよ?」

 俺は何に対して反発したのだろう。ただ相変わらず緑川はのらりくらりとかわすだけを繰り返している。

「わたしの同棲相手はただの許嫁だよ。親同伴ってわけでもないし、好き合ってるわけでもない。そこは君らと違うのかもね。でもわたしは家族でもなんでもない男と一緒に暮らしてる。そんな女の子がアイドルに向いてないって、芸歴の長い君ならわかるでしょ?」
「…………」

 それ以前にあいつと俺がそういう関係になった記憶なんて一ミリもないのだが。

「とりあえずわたしはアイドルに向いてないってことだよ。こんな嘘つき、誰も振り返らないって」

 ただの堂々巡りでもしてるかのように、緑川は外の反応をシャットアウトしてしまう。もしかしたら許嫁の話も嘘かもしれない。いや、それは本当なのだろうが、それが本当の理由とは思えないんだ。体の良い嘘で体の良い言い訳をする。緑川の笑顔は事実の全てを内包して、何もかもを見えなくさせている。

「どうせ君だって、わたしのこと何も信用してないんでしょ?」

 だけど厄介なのは、その事実に緑川本人も気づいていることだ。俺の考えを全て見透かした上で、彼女は笑っている。君『だって』という言葉の中に、周囲の誰一人信用してないことを示しているから。

 許嫁という単語が出てきた時、一つ思い出したことがあった。それは、緑川の家庭環境についてだ。緑川はあの丘の上にある緑川学園の理事長の娘であること。そんな自分を特別視されたくなくて、芸能界で活動しているらしい。遥華からそんな話を聞いたことがあった。緑川学園といえば理系の学問にめっぽう強く、優秀な学生には手厚い補助があることでも有名だ。そんな学校の正真正銘のお嬢様がアイドルになるとか、確かに違和感が残る話かもしれない。

「誰も信用してないって言うのなら、なんで星乃宮は緑川にご執心なんだ?」
「そんなの知らないわよ。そもそも勝手にわたしをストーキングしてるだけのことじゃない?」
「本当に何も知らないのか? 星乃宮は緑川のファンという可能性も……」
「そういうのじゃないと思うよ? それに心当たりがゼロってわけでもないしね」

 遥華がストーカー被害にあったように、緑川にも似たような連中がいるのかもしれない。心当たりがあるという辺りからも、興味本位でこれ以上聞くのも野暮な気もした。

 次に彼女にかける言葉を完全に見失ってしまう。やはりこの手の話に、俺は無力なのだろうか。

「だったらさ……」

 そんな俺を……いや、彼女は空へ向かって話しかけていた。背を真っ直ぐにして立ち、小さく微笑する彼女の横顔に、俺をさらに困らせるような彼女の素顔を見た気がした。

「君は、わたしがアイドルに向いてるって、本当に思ってる?」

 今にも張り裂けそうな緊迫感だけが、灰色の空を伝って何かを胸に訴えかけてくる。

「……だって、わたしは嘘つきだよ? しかもわたしの嘘なんて誰でもすぐに気づいちゃうし、わたしだってこんな醜い自分は大嫌い。そんな人を誰かが好きになるなんて、そんなのありえないと思うんだ」
「言ってる意味がわからないな」
「君だってそうでしょ? 君は遥華ちゃんが大好きだから、支えになってくれそうな人を探してるだけ。星乃宮さんも自分の野心のためにわたしを利用したいだけ。だからね、結局そういうことなんだよ」

 彼女の言うように、あいつのためではないというと正直嘘になる。
 だけどそれとは違う感情だって……。

「それでも、自分を変える必要なんてどこにもないんじゃないか?」

 なぜなら今の俺は、遥華が大嫌いだから。

「それ、どういうこと?」
「何も変わる必要なんてないってこと。ある人に嫌われたって、嘘とか本当とかもそんなのどうでもよくて、今を必死にもがいてる緑川の姿を見てくれる人はいるんじゃないか?」
「それって……」

 緑川はそこまで言いかけて、何か言うのを止めたようだ。はっと我に返ったのか、一瞬にして女優の顔に戻ってしまう。人を騙すための、幾度となく彼女が使ってきたであろう幻の顔に。

「隼斗くんって、遥華ちゃん以外にもちゃんと優しいんだね」

 何を言いかけたかと思えば、そんなこと言うんだ。

「どういう意味だそれは」
「それについては自覚なしか……」

 雨に濡れた坂道が、急に軽くなったような気がした。

「とりあえずわたしがアイドルになるべきかどうか、もう少しだけ時間をくれないかな」

 わけがわからない。さっきまで閉ざしていたくせに、春の桜を背景にした満面の笑みを咲かせてくる。
 ますます真実の彼女がわからなくなり、その美しい横顔は冷たく俺に刺してきたんだ。