夜空はまだ厚い雲に覆われているけど、ところどころ雲の隙間から星が煌いている。
芸能事務所『カスポル』の建物の三階は居住区になっていて、両親と私、そして隼斗がここに暮らしている。もちろん私と隼斗の部屋は別々で、だけど私が隼斗の部屋に無断で侵入しても、隼斗は一度だって怒ったことはない。彼が無頓着なだけかもしれない。
「……ねぇ。私がアイドルになるって言ったこと、やっぱし怒ってる?」
隼斗は部屋のベランダで、ぼんやり星の数を数えてるようだった。曇ってばかりで本当に数えるくらいしか見えないけど、私の部屋にはベランダがないからちょっぴり羨ましくも思えた。
「別に」
たった一言。それだけじゃ言い表せない何かがあるのは明白なのに。
「だけど、私だって怒ってるんだから……」
「何をだよ?」
このままでは隼斗の態度と無愛想な言葉の撃ち合いで、また喧嘩になってしまう。それでも隼斗に言いたいことが山ほどあるのは事実だ。
「隼斗が役者を辞めるって言ったこと」
「…………」
ここで黙られるのも卑怯。まるで私が隼斗を虐めてるかのようにも思えてくる。
「そもそも辞める必要なんて本当にあった? 隼斗は何も悪いことしてないのに」
「別に、そういうのじゃねーよ」
だったらどういう理由なのだろう? そんな私の疑問など何一つお構いなく、隼斗はまただんまりを決め込んでしまう。頑固でどうしようもない性格なのは、幼い頃から変わってないのだ。
「ねぇ隼斗。やっぱし隼斗は、私のことが嫌いなの……?」
それがますます私を不安にさせる。これだって私が小さい頃から何も変わってない。
「私が頼りないから……隼斗に迷惑ばかりかけているから……」
「だからそういうのじゃないって言ってるだろ!」
隼斗が語気を強めたせいで、風船が割れたようにしゅんとなる。彼が私に振り向いてくれたことなど一度だってなかった。姉として頼りないのは間違えない。あんな事件、私一人で解決させるべきだったのに、隼斗を巻き込んでしまった。そのせいで大好きだった隼斗の演技を、もう見れなくなってしまったのだから。
私だって本当は、隼斗と喧嘩なんてしたくはないのだ。
夜風が冷たい。もう四月だと言うのに、まだどこかに冬の空気が混ざってるようだ。
ベランダに私と隼斗、二人並んでみても、隼斗はずっと星の数を追っかけているだけ。私もその横顔から、またすぐ目を逸らしてしまう。隼斗に視線を感じさせないよう、心の距離を読み取ろうと試みていた。
「俺にも、役者以外の道があるんじゃないかって、そう思っただけだ」
隼斗は私を見透かすように、ぼそっと呟く。唐突に小さな針が胸に刺さったようで、私ははっと驚いてしまう。そもそも『俺にも』ってどういう意味だろう。
「それって、アイドルのプロデューサーになるってこと?」
「プロデューサーでなくても関係ない。別になんだってよかった」
やっぱしわからなかった。隼斗はプロデューサーという仕事に興味を持って、その道を選んだのかと思ったけど、そういう話でもなさそうだ。純粋に役者を辞めたかっただけなのかもしれない。
「隼斗、役者の仕事が大好きなのかと思ったけど、そうじゃなかったんだ……」
「…………」
また沈黙。でもこの答えはイエスであるということ。恐らく私の中にもやっとした何かがあったのは、これのせいだったのかもしれない。
「私は……隼斗に役者を辞めてもらいたくはなかった……」
そう呟いた後に気がついて、だけどもう遅い。でもこれが私の本心だった。こんなの今更だし、私のどの口がそれを言ってるんだって。あの事件に巻き込んでしまった張本人が口にしていい言葉ではないけど。
「……は?」
だからだろうか。どこか気の抜けた隼斗の素っ頓狂な反応は、少し意外にも思えた。
「いやだからね。私は隼斗の演技が大好きだったし……」
「何言ってんだお前……」
だけどそれはこっちの台詞でもある。そんな反応されたところで、私も何を返していいのかわからない。言いたいことあるなら素直に全部話してほしいくらいだ。
「それ。何か、文句でもあるの?」
「お前、役者の仕事が大好きだったんじゃないのかよ?」
「……うん。好きだったよ、とっても」
「だったらなんで」
そう言い返されて、私は躊躇する。その瞬間隼斗が苛立ってる理由に、何となく気づいてしまったから。でもそれは私の問題であって、隼斗には何も関係ないはずだ。
「私にとっての演技は、大好きなただの仕事だったから」
私は正直な本音を返した。多分だけど、隼人は納得の行かない回答かもしれない。でもそんなの関係ない。私にとっての役者という仕事は、仕事というだけであって、それ以上でもそれ以下でもなかったから。
隼人とは明確に異なる、恐らくはそういう理由だった。
「……そっか」
隼人は納得したのかもしれない。してくれたのかもしれない。でも今の私は、そんな隼人にこれまで経験したことのない距離を感じている。
そのせいなのか、隼人の横顔が霞んで見える。暗い夜空の下、何もかもがぼやけて見えた。
「なんか、ごめんね……」
「お前が謝っても仕方ないことだろ」
「……うん」
すれ違い。本当にこんなの初めてだった。隼人とはずっと同じ空を見てきたはずなのに。
「私達って、もう同じ場所には居られないのかな?」
ふと溢してしまった弱音に、私の身体はさらに硬く縮こまってしまう。遠くへ行ってしまった隼人に、私は何を求めようとしているのだろう。全部私のせいだと言うのに、彼にそんなことを言うのは本当におこがましいことであるはずなのに。
「同じ学校に通って、同じ屋根の下に住んでいるのに、私と隼人は……」
「そういうもんだろ。こういうのって」
こういうのって、どういうの……? 隼人とは幼い頃から一緒に生活してきた。私はこれがずっと続くものだと思ってたのかもしれない。よく考えたらそんなことあるはずないのにね。
例えば、互いに好きな人ができたらとか……。
私と隼人は、姉と弟という関係で、だからこんなの必然で。
出来がとっても悪い姉は、頼りになる優秀な弟にいつも甘えてばかりだったよね。
「それがどんなに狭い一方通行の道だったとしても、いつかは大通りに出て、新しい場所へ向かわなくちゃけいけないって。今まで俺も役者という仕事しか追いかけてこなかったけど、それ以外の道も知らなくちゃいけないって。今更その事実を知っただけ……」
そう言う隼人の瞳は、灰色に輝いていた。ずっと昔、もういつの頃だったか忘れてしまいそうな遠い過去に、私を『おねえちゃん』と呼んでいた頃の隼人の顔がその瞬間浮かび上がり、ぱつんと消えてしまった。いつからか隼人は私を『遥華』と名前で呼ぶようになり、今日に至っては一度も私のことを呼んではくれない。冷たく『お前』ってあしらうその声は、姉と弟にさせてくれていた関係を、完全にぶち壊していた。
ううん、違う。もしかしたらずっと前から私達は。
「隼人。……私、隼人のこと、ずっと……」
……ずっと隼人は私の弟で居てくれるものだと信じていた。
だけど私がそれを口にする前に、隼人は先回りしてきたんだ。温かい声で、寒い夜空を照らす小さな蝋燭のような灯火を差し出してくるかのように。
「お前は……遥華は、ずっと今のままの遥華でいてほしい」
だけどそんなの、本当にずるいと思えて仕方ないのだけど。