「お兄ちゃんお腹空いた〜。ご飯ちょうだい!」
「…………」
無言。さっきからボクのことを全く相手にしてくれない。
まるでボクのこと見てはいけない幽霊か何かと勘違いしてるよう。確かにそれに近い何かではあるけど、でもボクを見たところで命も魂も抜かれることはないんだけどな。
「あ、ダメだよお兄ちゃん。いくら自分の部屋だからってそんなダサい服着たら女の子に嫌われるよ〜」
「…………」
そしてボクに我関せずで着替え中。こんなしょうもないお兄ちゃんの姿をあの小娘連中に見せるわけにはいかない。特に隣の部屋の小娘は何かとお兄ちゃんを狙ってくるからボクもしっかり見張っておかないと。
「その服でこの部屋を出たらまた碧海ちゃんにからかわれちゃうんだからね〜」
「別に緑川に何思われたってどうでもいいよ。……じゃなくて、実はお前も女だろ! 俺が着替えてるのに少しは恥ずかしいとか思わないのかよ!」
何をいまさら。本当に呆れて姑息な溜息しか出てこないよ。
「知らないよそんなの。事実関係的に確かにその可能性が高いけど、ボクは生まれたときからボクでしかないし、女として育てられた記憶だって一ミリもないよ。そんな哀れな美少女が『君は女だ』とか突然言われたところで、無謀としか言いようがないよね?」
「お前のその姿が『美少女』であるかは議論の余地があるけどな」
「でも今のお兄ちゃんのその態度、女の子に対してデリカシーがないと思わない?」
「今自分で『女と呼ばれるのは無謀だ』とか言ったばかりだよな!?」
ぷんぷん怒ってるお兄ちゃんは嫌いだ。イケメンのかっこよさがそれこそ半減してしまう。
だけどこうやってお兄ちゃんと喧嘩したことは一度だってなかったから、ボクは楽しくて仕方なかった。これまでたとえお兄ちゃんが苦し悩んでいた時だって、手を差し伸べることすらできなかったんだから。
そんなボクを解放してくれたお兄ちゃんには、本当に感謝してくれてるんだよ?
「それより『ご主人様』のところに戻らなくていいのかよ?」
「え。只今絶賛家出中〜」
「家出って、そもそも隣の部屋だろうが」
ま、ボクのこの入れ物を作ってくれた隣の部屋の小娘にも感謝はしてるんだけどね。
隣の部屋からは先程の二人の談笑がまだ微かに聞こえてくる。きっと透ちゃんのことだから、ボクが何に怒っているのか気づいてないのだろう。ううん。そもそもボクが怒ってるという認識さえないと思う。でもそこが透ちゃんの憎めない可愛らしさなのかもしれないけどね。
「それで。家出の原因は?」
「お兄ちゃんには関係ないでしょ。乙女には乙女なりの悩みがあるのだよ」
「女として育った記憶ないとか美少女とか乙女とか、お前ほんといろいろめんどくさいな」
「そういうのひっくるめて自分でもめんどくさいんだから仕方ないよ。これがボクってやつだし」
そもそも透ちゃんの前のボクは少女でも乙女でもない。あくまでAIという立場だ。この身体自体はAIで動いてるし、その力がなければボクは自由に身体を動かすことさえできない。
だけどそれが理由で家出して、ボクは一人で勝手に傷ついてるんだ。実に情けない話だよ。
「でもお前は俺と違って、この世に生まれてくることができなかったんじゃあ……」
「そこはお兄ちゃんが気にするとこじゃないでしょ? これはボクとお兄ちゃんの母親の問題だし」
「俺の母親って、お前の母親でもあるだろ?」
「だから何度も言うようにそっちの確証はどこにもないんだってば」
ボクが物心がついた頃には既にあのペンダントの中に閉じ込められていた。父親らしい人も母親らしい人も存在しない世界で、目の前にはお兄ちゃんしかいない。だけどそのお兄ちゃんにさえボクの声は届かなくて、ずっと暗闇の道をゆっくり歩いているだけだった気がする。
だけどボクが何者なのか、大方の予想はできていた。お兄ちゃんの母親の位牌の片隅に、一つの母子手帳が置かれていたから。そこには『希美』という名前が書かれてあった。それは母親の名前でもなく、もちろんお兄ちゃんの名前でもない。恐らくは、そういうこと。
「でもどうしてこんなことになったんだ? やはり俺の実験は成功してたのか?」
「ああ〜。例の解魂剤の実験のこと?」
「その名前を誰にも話した記憶はないんだが、やっぱしお前はそういうことなのか」
「そりゃどう考えても頭のおかしい実験としか思えないもんね。物体から魂を解放する実験なんてさ」
「…………」
お兄ちゃんは苦笑する。実験を進めた張本人がそんな調子では、まんまとそれに釣られてしまったボクの立場というものがない。まるでボクがただの間抜けな魚みたいじゃんか。
「だったらお兄ちゃんはどうしてそんな意味不明な実験を始めたの?」
「それは……」
それでも少し赤らめたその顔は、ボクの大好きなお兄ちゃんの顔だった。
「楓を救った後、今度は俺の本当のたった一人の妹を救ってみたいって、そう思ったからだ」
だって、なんの躊躇いもなくこんなこと言ってくるんだもん。
「やっぱしボクの存在に気づいてたんだ」
「ああ。このペンダントにはいつも守られてる気がしてな。もしかしたらここに誰かがいるって」
「でもそこに隠れてたボクは、そのペンダントに隠れてただけのただの怨霊かもしれないよ?」
「別にそれだって構わないよ。お前が見守ってくれてたのは事実なんだから」
いろんな感情が複雑に入り交ざって、AIとして再びこの世に生まれたことを後悔する。
「ボクは何もしてこなかったよ。でもそう考えるとAIの力って偉大だよね? ボクが何年もできなかったこと、あっという間にできるようになっちゃうんだもん」
「AIが偉大だなんてまやかしだろ。俺はそれよりずっと前からこのペンダントに温もりを感じてたから」
「なにそれ? まるで今のボクにふわふわの温かさがないみたいじゃん」
「そういう意味じゃないよ。俺が悩んでるとき、このペンダントから形のないエールを貰ってた気がしたんだ。今のお前みたいに声があるわけでもないのに、ずっと側で俺の声を聞いてくれてたかのような」
「お兄ちゃん……」
今は机の上に置かれているそのペンダントは、経年劣化のせいだろうか、やや色褪せて見えた。
「でもこうやって俺の前に現れたお前は、本当に生意気なAIでしかなかったけどな」
「なんだかせっかくいい話のはずが台無しになってない!? 主にボクのせいで」
冗談交じりでもこんなことまで言うんだもん。いつだってずるいんだ。
「でもお兄ちゃん、いい加減ボクのことお前って呼ぶの止めてくれないかな?」
「だったらなんて呼んでほしいんだよ?」
そんなボクから一つだけ、ほんの僅かなボクの願いを聞いてほしいんだ。
「お兄ちゃんとボク、二人でいるときはボクのことを『ノゾミ』って呼んでほしいな」
それは同時に、ボクの勇気でもあるのだけど。
「……ああ。わかったよ。ノゾミ」
一気に胸が熱く苦しくなるのを感じる。ボクもこんな気持ちを持つことができるんだって、初めてその感覚を実感したんだ。これは恐らく幽霊でもAIでも持つのはおかしな感覚なはずで、きっと本当にずるいのはボクの方なのかもしれないね。
ねぇお兄ちゃん。ずっと前から大好きだよ。
「あれ? 珍しい組み合わせで随分と仲良さそうにしてるじゃん」
こういう場面で全く空気を読まず、その人はボクとお兄ちゃんの間に割って入ってきた。最近こちらのお話では久しぶりの登場なので少しくらいは許してあげたいけど、せめてドアのノックくらいはしてほしい。
「俺、今着替え途中なんだが」
「そうだよ。お兄ちゃんの裸を見たいとか、いつからそういう変態キャラに変身したかな?」
「そんな生意気な態度でいいのかな〜? せっかくお兄ちゃんにおもしろい話を持ってきてあげたのに」
碧海ちゃんは本家自慢の挑発し放題な笑顔でそう誘ってくる。どうせまた大した話じゃないくせに、いつも大袈裟すぎるんだ。
「なんだよ面白い話って」
「今度ね。わたしアイドルデビューライブすることになったの。是非大樹くんにも観てもらいたいなって」
「いや、そういうの興味ねーから」
「ふふっ。わたし『おもしろい話』って前ふりしたはずだよね〜?」
そういうと碧海ちゃんは手に持っていたビラをお兄ちゃんのベットの上に置いた。きっとボクにもそのビラを確認してもらいたい。口には出さずとも、そんなシグナルに違いなかった。
ビラには三人組アイドルユニットの顔写真が映る。『虹色ゴシップ』。それが三人のユニット名らしい。センターにはテレビのどこかで見覚えのあるショートボブの女の子。すぐ右隣で胡散臭い笑顔を塗り固めている碧海ちゃんにも負けず劣らずの華があった。
そして、問題は左隣だ。ボクは違和感を覚えてその見慣れない衣装を二度見した。つまりその幼すぎる顔の方はしっかり見覚えがあって、あまりにもアンマッチすぎる衣装のせいですぐに合点できなかったんだ。
「カエちゃん!???」
思わず声を上げてしまうボクに、慌ててお兄ちゃんも反応する。
「楓……!?」
驚くのも無理はないよ。その子は紛れもなく、お兄ちゃんがその命を救った妹の横顔だったわけだから。
ちなみにそこでしたり顔してる碧海ちゃんの様はどこか許せない部分もあったけどね。