そそくさと帰ってしまったお兄ちゃんの顔は、やはり機嫌を損ねたままのように見えた。
だけどボクだってこの状況を理解できてないんだ。ボクの正体を問われたところで、そんなの返せるわけがない。わかっていることは、お兄ちゃんが生を受けたのと同時に、ボクもこの世界に現れたということ。何もできない理不尽な時間だけが、無意味に流れてきただけなんだから。
でもこれだけは言えるよ。ボクはお兄ちゃんをいつでもずっと見守ってきたんだって。
「あ、あの……」
「ああ、ごめんごめん。とにかくその辺へ適当に座ってよ」
お兄ちゃんが去った後の霧ヶ峰先生の研究室は、空虚な沈黙だけがあった。透ちゃんもきょとんとするばかりで、一体何が起きたのか、全然頭の整理が追いついてないようだ。
「コーヒーと紅茶、どっちにする?」
「あ、じゃあコーヒーで」
そんな透ちゃんを見かねたのか、霧ヶ峰先生は優しいさりげない声をかける。コーヒーの粉を紙の上へ落とし、湧きたての熱湯で少しずつドリップしていく。やがて研究室には甘い香りが漂い始めてきた。
「コーヒー好きなの?」
「あ、いえ。たまに深澤くんが淹れてくれるコーヒーが美味しくて、それで……」
「そっか。ちなみに、彼にコーヒーの淹れ方を教えたのも僕なんだけどな」
うん。その光景ははっきり覚えてる。お兄ちゃんが毎日ここに引き篭もっていたのは、ちょうど今から一年くらい前のこと。当時中学生だったお兄ちゃんはコーヒーなんてもちろん飲んだことなくて、先生がそのことを気づかずに無理やり飲ませていた気がする。最近こそお兄ちゃんは生意気に『ブラックもいいけど疲れを取るには砂糖が必要』とか言うようになったけど、最初の頃は砂糖だけはおろかミルクもたっぷり入っていたし。
「深澤くんにAIのことを教えていたのも、先生なんですか?」
透ちゃんの顔はまだどこか緊張が混ざっている。それに呼応するように先生はゆっくりと首を横に振った。
「僕が大樹君に教えたのはAIじゃなくて、医療工学についてだよ」
そうなんだ。霧ヶ峰先生は元々はお医者さんであって、AIの先生でもなんでもない。ただAIの研究成果を活用しているというだけで、AIそのものに興味あるわけではないんだよね。
「医療工学……?」
唐突な単語に、透ちゃんはすぐにはぴんと来なかったようだ。
「そっか。今はそういう研究していないんだっけ?」
「あ、はい。というより今の深澤くんが何の研究しているのか、ボ……私もわかってなくて」
「目的は達成されちゃったからね。今後どうするかは彼も悩んでる最中かもしれないな」
研究成果としての手術は無事に成功し、お兄ちゃんが医療工学を学ぶ必要性も失われてしまった。今は暇つぶしでもしてるかのように少し斜め上の研究をしてるようだけど、それについては先生も透ちゃんも知らないようだ。元々進んで自分のことを話したがらない性格だし、それにあんなことがあったらお兄ちゃんの性格が捻じ曲がってしまうのも仕方ないことだと思う。
だからこそ命の恩人でもあるはずの兄にあんな罵り方をしたあの子を、ボクは絶対に許せないんだけど。
「目的って、何かあったのですか?」
「あれ? 透ちゃん、お兄ちゃんが今の高校入った理由って知らないんだっけ?」
「うん。何も知らないよ。むしろカメレオン君はなにか聞いてるの?」
「あ、別にそういうわけじゃないんだけど……」
ボクは咄嗟に反応してしまったことを少し後悔しつつ、慌てて取り繕う。後は先生よろしくみたいな感じで、ボクの可愛い笑顔を先生にぶつけてあげるんだ。ま、ボクの無表情な笑顔では本当に何を訴えてるのか、誰も気づけないのは承知の上だけどね。
「例の研究成果の話だね。大樹君が医療工学を学んでいた理由でもあるし、割と界隈でも賑やかな話でもあったんだけどな」
確かに、界隈では有名な話だった。でも少しでも分野が違うと途端に知らない人が多くなるような、些細な事実でもあった。その渦中にいたお兄ちゃんは、自分が注目されることを嫌うような性格だから、透ちゃんのように身近な人でも知らなくて当然かもしれない。
「大樹君は自ら人工脳を作って、自分の妹の命を救ったんだよ」
人の命にはそれなりの重みがあるように、先生はその言葉を口にした。
「え。人工脳で、命を救ったって……?」
「正確には大脳の損傷した部分を大樹君が人工的に作り上げて、移植手術を行ったんだね。元々は僕の研究論文があったのだけど、それを大樹君が実用的に改良したんだ」
「大脳が損傷って、深澤くんの妹さんに何かあったんですか?」
「ああ。妹さんがバレエの練習中に転倒して、その際に頭を強く打ってしまったようなんだ。それで植物状態になってしまってね」
先生は知らないようだけど、事実は違う。あの子は自分を傷つけるためにバレエを続けていた。みんな植物状態になったことばかり話してるけど、事故当時あの子の身体は既にボロボロで、同時に足首の疲労骨折もしてたんだよ。ボクはあの子が転倒した際に受け身を取らなかったのは、わざとじゃないかって疑ってるんだ。そうじゃないと辻褄が合わない点が多すぎるもん。
もっともペルソナで固められたあの子の顔から、その真実を引き出すことはできなかったけど。
「大樹君はどこで僕の研究論文を見つけたのか、間もなく僕を訪ねてきた。僕の論文はあくまで仮説でしかなかったのに、今すぐ使いたいと名乗り出てくれたんだ。それから妹さんを助けるため二人で議論をしつつ、やがて手術は無事成功した。それまで無我夢中で無愛想だった大樹君はようやく笑顔になって、その時の顔だけは今もずっと忘れられないよ」
そう。だから直後にお兄ちゃんへ向けられたあの子の刃のような顔も絶対に忘れられない。
「深澤くんにそんな過去が……」
「手術の成功事例が緑川学園の特待生になれたきっかけというわけだね。大樹君は自分の妹の命を救ったスーパー中学生として名声を掴んで、ちょっとした有名人にもなれた。せっかく自由な寮生活もさせてもらってるんだから、その好意に素直に甘えればいいのにって純粋にそう思うよ」
結局あの手術は何だったのだろう? 誰のための手術だったのか。
「でもそれって……何かおかしくないですか?」
透ちゃんは顔を少し紅く染めて咄嗟に声を上げた。まるで生まれたばかりの子供のような瞳をしている。
「そんなにも妹さんのことを大切に思ってるんなら、なんで一緒に暮らさないで寮生活してるのかなって」
「それは僕も聞いてないんだ。手術直後はあんなにも成功を喜んでたのに、それから妹さんのこと話は一言もしなくなったし。元々大樹君の家族の中で大樹君だけが誰とも血の繋がりがなくて、妹さんも妹とは言え、親の再婚相手がさらに再婚した相手との間にできた娘さんだしね。居づらいのかなとは思っていたけど」
「そう……ですよね……」
何も知らない人から見たら多分それが正解なのだろう。だけど事実は……。
「違うよ。そんなのじゃない」
今でもボクの中には熱い怒りしか芽生えてこない。もうそれしか頭で考えられなくなってるんだ。
「お兄ちゃんをあの家族から追い出したのは、お兄ちゃんの妹でなきゃいけないはずのあの子だよ!!」
もしボクにれっきとした人並みの力があったなら、多少はそんな過去も変えられたはず。
そんなの当然過ぎた願いでしかなくて、叶うはずのない夢の世界の話かもしれないけど。