しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

流れ降る星の雨音 〜楓〜 エピローグ

 ここは土曜日の夜遅くの東京の繁華街。微かに映る星空がどこか寂しげで美しく思えた。
 先程まで賑やかだったライブ会場前にあたし一人。……そもそもなんでこんなことになったのか?

 理由は簡単だ。『虹色ゴシップ』リーダーの陽川さんは母親である事務所社長の車で帰ってしまい、緑川さんは学生寮の同僚の我が兄と帰ってしまう。月香は月香で気がつくといなくなったのは、恐らく前の同居人の上郷くんと良い感じでやってる最中だろう。知らんけど。
 気がつくとあたしは一人取り残されてしまっていた。あたし自身友人が少ないのは今に始まったことではないけど、ただ急に現実に戻された気がした。ここで虚しいと思ったら負けな気がするけど。

 さて。駅に向かおう。今日はいろいろなことがありすぎてさすがに疲れ果ててしまった。
 そもそも友人のいない地味な女の子がアイドルデビューなんかして、行き場所さえ見失っていたくせにあんな大勢の人前で歌なんか歌ってしまったわけだから。ネットで自分の歌声を聴かせるだけとはわけが違う。観客と同じ空気の中で、自分の生の声を聴いてもらった。
 その中にはずっと疎遠だったはずの兄もいた。図らずも兄とは終演後に二人きりで話をしたんだっけ。初めて兄妹ぽいことをしてしまった気がする。本当は義理の兄妹とかそういう話は関係なくて、もっと純粋にやらなくてはいけないことをようやくやれた気がしたんだ。

 疲れた。……あ。

 ふとあたしの白い手の甲に落ちてくる涙に、気がついてしまった。
 その涙の理由までは、正直なところわからなかったわけだけど。

「そんな真っ赤な顔して一人で電車に乗ったら目立っちゃうよ? ここは東京なんだから」
「…………」
 気がつくと目の前に例の黒い車が止まっていた。正直、この派手な車のほうがよっぽど目立つと思う。
「家まで送るよ。疲れたでしょ?」
「君、ひょっとして……」
 あたしはふと思ったんだ。それは自然に出てきて、忽然と聞いてみたくなったこと。
「ん、なに? 楓嬢さん?」
「……暇なの?」
 こういう人ってストーカーとかじゃなければただの暇人とか、そういう類の人だと思うんだよね。


 車は都心の繁華街から首都高速湾岸線へと流れて、横浜のベイブリッジを渡り、やがて鎌倉の鶴岡八幡宮前を経由して海沿いの道をひた走る。どう考えても若干遠回りのように思えたけど、夜間の道路は渋滞などなく、すいすいと藤沢市内へと到着した。
 もっとも車が停車した場所はあたしの自宅前とは完全に程遠く、江ノ島を目の前にした海岸なわけだけど。
「ごめんね。江ノ島まで行ってもよかったんだけど、もう入れなくなってて」
「いえ。……というかこんな夜遅くに海に連れてこられても、暗くて何も見えないんですけどね!?」
 江ノ島に渡る橋は、夜の二十二時で閉鎖される。でも今はそんなことどうでもよくて、こんな人気のない海辺に来たところで、江ノ島灯台こそ灯りがついているものの、その形自体は大層うっすらしているのみ。綺麗な光景というよりはっきりと薄気味悪いが本音だ。
「こんなところにデートで誘って喜ぶ女子がいると嶋田さんは本気で思ってるんですか?」
「ああごめん。考え事するときに僕がここへよく来るだけなんだ。爺もそれを知ってるから多分無意識にここに着いちゃったんだと思う。……そっか。よく考えたらこれってなんだかデートっぽいね?」
 ……こいつ、本気で言っているのか? 呆れて返す言葉が全く思いつかなかった。
 爺というのは恐らく車の運転手をしていたあの初老の男性のことだろう。嶋田さんの執事みたいなものか。その執事と嶋田さんは車の中で会話した風はなく、あの豪勢な車の後部座席、嶋田さんは右側に座り、あたしはそのすぐ隣の左側に座っていた。海沿いを走ってくれたおかげで、確かに窓の外を流れる景色は飽きが全くないものだったけど。
 え、ちょっと待って。こいつの行動、どこからどこまでが天然で、どこからが計算なんだ!?

「あの……さ……」
 しばらく互いに無言の状態が続いたことが居た堪れず、あたしはふと声を出す。
「緑川さんとはどういう関係なの?」
「お兄さんとはちゃんと話せたの?」
 ……が、どういうわけか質問のタイミングが嶋田さんと完璧なまでにシンクロしてしまう。
「ん? 何か言った??」
 砂浜に流れこんでくる波の音が、嶋田さんの聞き直しの声に余韻を与えていた。というかあたしはなんていう質問をしていたのだろう。咄嗟に出てきた質問がそれ? ちょっと勘弁してほしい。
「あの、さ。緑川さんとスタジオで話そうとしてたみたいだけど、二人ってどういう関係なのかなって」
「あぁ〜、それね。ひょっとしてカエちゃん、気になる?」
 それは完全に挑発にしか聞こえなかった。あたしへの呼び名は『カエちゃん』へと変わり、その呼び方は緑川さんのそれと一致していたから。
「べ、別にそんなことないわよ!」
 一体どこのラノベのツンデレ女子だろう。当然狙ってるつもりは一ミリもない。
「それよりカエちゃんの方はお兄さんとしっかり話できたのかな?」
 そして見事なまでに話をすり替えられた。まるで一瞬の隙きをつかれたかのようにも感じたけど、さっきのあたしの対応を思い返すとこの話のすり替えに乗っかるしか手段は残ってなかった。
「……話せたわよ。たぶん、仲直りもできたと思う」
「仲直り……?」
 嶋田さんは首を斜めに傾げていた。問い返されてあたしの頭にも同時に疑問符が浮かぶ。そもそもあたしは兄と喧嘩をしてたのだろうか。
「ちゃんと、素直に話ができた……かな?」
「そっか。それは良かったね」
 やはり疑問符が最後についてしまうあたしに、何も躊躇なく嶋田さんは同意の言葉を表してくれた。これで良かったのか未だ実感のわかないあたしに、そっと背中の後押しをしてくれる。暗闇の海岸で嶋田さんの表情だってさっぱりわからないけど、どこかあたしと同じ顔をしているように思えたんだ。
「ひとつ、わかったことがあるんです」
「何がわかったんだい?」
 だからすっかり気を許してしまう、あたしがここにいる。
「あたしには本当は姉がいたらしいのです」
「姉……?」
「兄ともあたしとも血が繋がってる姉。兄の母親の娘で、あたしの父親の娘。だけど生まれてくることはなくて、結果としてあたしと兄を繋ぐはずだったものがなくなってたみたいなんです」
「そう……なんだ」
「そう、みたいです」
 自分で話してても情報量が多すぎる。こんな話に嶋田さんだって十分理解できるとも思えず、それでも相槌をちゃんと打ってくれるのは彼の安心できるところだ。あたしの方ばかり喋りすぎているかもしれない。それでも彼は聞いてくれる。だからあたしもつい話してしまう。
 出逢ったばかりの頃、あたしは嶋田さんに防御が甘すぎることを指摘された。今時で言うところのチョロインというやつかもしれない。自分で否定できなくなってるところが正直痛い。
 だけどそんなチョロインにされてしまったのは、正直嶋田さんのせいだと思うのだ。これは本当に。

「どうして嶋田さんは……」
 あたしの話を黙って聞いてくれるの? 
「ん……?」
 聞こうとしたことを、咄嗟にやめる。なんとなくだけど、理由がわかってしまったから。
「嶋田さんは……本当はあたしの話より、あたしの兄の話を聞きたいんだよね?」
 すると嶋田さんはきょとんとした風に、あたしの方を見てくる。はっきりとどんな顔をしているのかわからないけど、波打つ音とともにその静寂の時間が彼の顔を自ずと浮かび上がらせてくる。
「ふふっ。そういうところがカエちゃんらしいね」
「カエちゃん言うなし!!」
 ほら。やっぱし馬鹿にされてた。
「どうして? 緑川さんにはずっとカエちゃんって呼ばれてるでしょ」
「あ、あれは……そういう民族だから!!」
 どういう民族だ?
「でもさっき緑川さんから聞いた話だと、家族からも『カエちゃん』って呼ばれてるって聞いたよ?」
「兄からその呼び名で呼ばれたことはないし!! ……え。緑川さんは誰からそれを聞いたの?」
 本当に兄からだろうか? だとすると兄も裏ではあたしのこと『カエちゃん』呼びしてる??
 なんか、嫌だ。
「でもカエちゃんって呼ばれるカエちゃんも十分可愛いと思うけどな」
「だから可愛い言うなし!!!」
「じゃあ『可愛くない』って言われてほしいの?」
「それは……嫌だ」
「ほら可愛い」
「っ……」
 何が嫌かって、こいつのせいであたしがこれまで作ってきたはずの自分のキャラクターが全部覆そうとされているところだ。VTuberとしてのテセラムーンは、あたしが少しだけ背伸びをして、大人っぽい音楽を高らかと歌い上げるところに定評があったはず。そこに女子高生らしさを出した記憶はないし、もちろんVTuberであるだけに子供っぽいあたしの姿は出てくるはずもない。
 だから月香に『どうしてアイドルを目指そうとしたの?』と聞かれた時、躊躇したのだと思う。大人っぽいキャラを演じてたはずが、少し子供っぽくアイドルになろうとする。あたしとしては必然のことだったはずなのに、冷静に考えると本気でわからなくなる。
 それに……。
「ねぇ嶋田さん。前にあたしが大人になりたかったんじゃないかって言ったことあったよね?」
「ああ……。そんなこともあったね」
「嶋田さんに『可愛い』と呼ばれるあたしの、どこが大人っぽいって思ったの?」
「別に今のカエちゃんが大人っぽいって話じゃないけど……?」
「いやだからそうじゃなくて!!」
 自分で墓穴掘るのもそろそろ本気で腹が立ってくる。自業自得であることに間違えはない。
「最初はね、テセラムーンであるカエちゃんのことしか知らなかったから、本当に大人っぽい高校生なんだと思ったよ?」
「だからなんでそこ疑問形?」
「でもそこにアイドルとしてのカエちゃんが現れ、そしてリアルである君が僕の前に現れた。その度に月夜野楓という少女の解像度が上がっていったのは事実だし、本当は小さな女の子が必死にもがいて大人になろうとしてることに気がついたんだ。それだけでも凄いことだと思うけど?」
「そしてやっぱし疑問形? てゆかそれじゃあやっぱしあたしは結局子供ってことじゃん!」
「いいじゃんそれで。実際僕らは子供なんだから」
「…………」
 澄ました声にふと思い返す。そういえば嶋田さんは家業を継いで高校生ながら取締役とかだったっけ?
「高校生は高校生くらいのことしかできないと僕も思う。だってあいつら、僕なんかより経験値すげーし」
 大人を指差してあいつら呼ばわりする嶋田さんも十分凄いとは思うけどね。
「でもそれくらいだよね。経験と才能は結びつかない。経験で負けてしまう僕らは才能の方で大人に勝つくらいしかできない。だから僕は自分を出し切ることで必死にもがく。それはカエちゃんも一緒でしょ?」
「つまり君みたいに大人に勝ちたくて、あたしは大人になろうとしてたって言いたいの?」
「別に大人に勝とうとまでは思わなくても、なろうとはしてたでしょ?」
「してた……のかな?」
「どっちかというとカエちゃんの場合は大人になるというより、自立したかったはず」
「自立……?」
 はて。唐突にそんな言葉が出てきたところで、あたしは即肯定できるわけでもなかった。
「つまりこういうこと。君は兄を消すことで自分というものを保とうとしていた。でも大好きな兄を消すことなんてできるはずもなく、だから自分自身が消えることを望んだ。でも今度は兄がそれを許してくれるはずもなく、君の命を救ってしまった。故に、君は自分の行き場所を見失う。これがカエちゃんという小さな少女の大きな事実。……だよね?」
「……うん」
「行き場所を見失った少女はどこへ向かったのか? それがVTuberであり、アイドルだったんじゃないかって。少なくとも僕はそう解釈してるけど。違う?」
「それと大人になろうとするって、どういう関係が?」
「事実、自分で稼いだお金で自立して、実家を飛び出して一人暮らしを始めてるでしょ?」
「……あ」
 え、そこ? あたしの自立って、たかだかそんな話だったっけ?
「だって一人暮らしさえ始めてしまえば、カエちゃんの両親や兄の関係に振り回されることもない。カエちゃん自身が孤独を選ぶことで、兄や両親の関係も保たれることができる。誰かに守られるべき小さな女の子は、孤独な独り身の女性になることを選択した。そう考えるのが一番平和だと思うけど、どうかな?」
言い方! 孤独孤独言うなし。ぼっちなお一人様女性を好き好んで選んだみたいに言わないで!!」
「独り身は独り身で楽しいと思うけどね……」
「…………」
 彼の言いたいことは理解できたけど、納得はやはり難しかった。

「だったらさ……」
 一人が楽しいって言う君は、あたしのことどう思ってるの……?
「緑川さんとは結局どういう関係なの?」
「え……?」
 本当にどうしようもないほど自分が嫌になる。こんなことだからあたしは緑川さんには敵わないのだ。
「さすがにカエちゃんが疑ってるような関係じゃないよ。そもそも大樹くんって緑川学園の人質みたいな感じだよ? どちらかと言うと僕らと緑川家は牽制しあってるみたいな状況かな」
「兄さんが人質……!??」
 そんなまさか大袈裟とも一瞬思ったけど、確かに緑川さんは兄の許嫁とかなんとか言っていた。そんな話、当然あたしは知らなかったし親からも一ミリも聞いたことがなかった。だとすると緑川学園、つまりは緑川さんの父親の勝手な陰謀って話になるのか。なんだそれ?
「ま、緑川さんも許嫁話は大迷惑してるみたいだし、あの子は敵じゃなさそうってだけはわかったけどね」
「つまり嶋田さんは緑川さんのことが好きで気になってるってこと?」
「随分と斜め上の方向へ話が飛んでいったね? ほんとどうしようもないほどカエちゃんはカエちゃんだ」
「…………」
 はぁ。……もういいよ。あたしのだらしなさは今に始まったことではない。

「また会いたいときに、君を呼び出してもいいかな?」

 あ、へたれた。この場に陽川さんや緑川さんがいたら、きっとそんな風に言われるのだろう。
 だけどあたしは、まだ小さな女の子だ。ようやく兄への執着から卒業できただけの、そんな女子高生。
 兄を殺そうとしたり、それができなくて自分自身を殺そうとしたり。結局それすらできなかったけど。
 だから今ここにいる。誰の時間も止めることができずに、今を必死に、大人への階段を駆け上がってる。
 今日はアイドルデビューして、いつかはそれすらも卒業する日が来るはず。それで構わない。
 でも、こうして階段を駆け上がれるのは、あたし一人だけの力じゃない。
 兄に命を救われて、陽川さんや緑川さんが側にいて、月香にはいつも振り回されて。
 そして……。

「うん。もちろんいいよ」
 夏の海の匂いがした。砂浜は黒くて、海の水平線なんてもちろん見えるわけもない。
 だけどその声にほっとすると、彼のうっすら浮かぶ笑顔の背後に、一向に輝く星がぽつんと見えたんだ。