しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

流れ降る星の雨音 〜楓〜 004『分厚い雨雲と出逢い』

 それは、六月下旬の放課後、雨上がりの午後のことだった。
 ここ最近一週間ほどは毎日手に傘を持っていた。ようやく止んだ雨は、だけど今もこれ以上我慢できないほどの空模様の中で、しんしんとその時を待っているだけのようにも伺えた。
 登下校にかかる時間は、徒歩で約二十分ほど。雨が降りだす前に、家に辿り着きたい。ちなみに月香は用事があるとかで、気づいたら教室からいなくなっていた。神出鬼没の彼女を見送ることもなく、どことなく気抜けたあたしは駅近の街なみを歩いている。今日は芸能活動もオフの日だった。

 帰ったら曲を書かなくては。動画チャンネル『テセラムーン』として活動している方。
 こんなもやもやする雨雲を吹き飛ばすくらいの音楽を書きたい。天気に気持ちを振り回されるなんてまっぴらごめんなのだから。あたしはあたし。もう誰にも邪魔されたくない。

 あれ? あたしは一体誰と戦っているのだっけ?

 そうして見上げた道路の向こう側に、見慣れない黒い車が停まっているのを確認した。東京でもないこんな小さな街にあんないかにもな高級車が停車すれば、思わず視線がそちらへ向かうというもの。どこかの学校でお姫様をやってるはずの碧海さんですら、あんな車でスタジオに来たことはないのだし。

 少なくともあたしとは無関係の世界からやってきた車だ。
 不釣り合いの街並みと高級車。そんな車の中から出てくる人なんて、一体どんな人なのだろうか?

 だけど車から彼が出てきた瞬間、あたしは血の気が引いていくのをはっきり自覚してしまった。
 そこへ現れたは、どこにでもいるようなひょろりとした体型の男の子。着ている学生服から高校生であると認識する。だけど驚いたのはその顔で、あたしは間違えなくその顔に見覚えがあったから。

「お兄ちゃん……?」

 思わず声を上げてしまう。彼は道路の向こう側のため、その声は届くはずもない。
 ただどういうわけか、あたしと彼は視線が合ってしまった。じっとその瞳を見つめるあたしに、彼は少し首を傾げていた。まるであたしのことなんて知らない人とでも言いたげな顔。

 あたしは気づくと彼の方に向かって歩きだしていた。
 彼も車の中の運転手らしき人に一声かけると、彼だけを取り残して、車はすっと発車してしまう。

 彼は、あたしが近づくのをじっと待ってくれていたのだ。


 少し離れた場所にあった横断歩道を渡って、ようやく彼に追いつく。曖昧な記憶の中にある兄と比較して、違和感がさらにはっきりとしてきた。そもそも兄はこんなに背が高かっただろうか?

「お兄ちゃ……」
「あの、虹色ゴシップのテセラムーンさんですよね?」

 その疑問に拍車をかけるように、話が全く噛み合わないことに気が付かされる。さっきの車は何? 例の大学教授に送ってもらってたの? でもあの大学教授ってあんな高級車とは無縁の人に見えたんだけど?

「テセラムーンさんの曲、毎週聴かせてもらってます。あれ聴いてると勉強も集中しやすくて」
「そう……なんですか……」

 あたしの疑問を無視するかのように、話し言葉も丁寧語になっていた。兄に対しては使わない口調。

「虹色ゴシップの動画で貴女のお顔も拝見させてもらっていますので、さっき目が合ったときにもしかしたらと。ひょっとして、この辺りに住んでいらっしゃるのですか?」

 やはりこの人はあたしの兄ではない。……なんで? こんなにも顔は瓜二つなのに、声色が兄のそれよりもやや中性的で、背は兄よりやや高め。それに兄ならあたしがこの街に住んでることも知ってるはず。

 まるで出逢ってはいけない人に出逢ったしまったかのような、そんな危機感さえうっすら覚えた。

「立ち話もなんですので、貴女の時間が許すのであればそちらのファミレスにでも入りませんか?」
「……それっていわゆる、軟派ですか?」
「いえ。貴女からはいつも知性を感じるので、よろしければその素敵なお話を聞かせていただこうかと」

 毒気を一切感じないスマートな笑顔。いやだからそれが軟派というのでは?とも思う。が、気品溢れる立ち振る舞いのせいでツッコミを入れることすら遮られてしまう。悪く言えば天然といった具合。まるであたしは兄そっくりのこの男性に、完全に魅了されてしまったようだ。つまり、最悪。

 もちろん今日は全て僕が奢りますというので、あたしはファミレスでチョコレートパフェだけを注文する。彼はドリンクバーのみ。合計の金額だって、二人合わせてもやや千円を超えてしまう程度。……うん、絵面だけ見れば間違えなく軟派のそれに間違えなかった。

「そういえば名前をまだ申し上げておりませんでしたね。僕はこういうものです」

 すると彼は学生鞄から名刺入れを取り出し、名刺を一枚あたしの前に差し出した。って、男子高校生の学生鞄の中って、当たり前のように名刺なんて入っているものなの? ただ明らかに場馴れしているであろうその仕草は、彼が着ている学生服からは想像しがたいそれ。あたしは思わずペコリと頭を下げ、その名刺を確認する。
 彼の名前は、嶋田宗達。明らかに時代錯誤とも思える名前だった。ただそんな名前を裏付けるかのように、名刺にはあたしもよく聞く企業名とその肩書が書いてある。……取締役!??

「この会社って……あの大手通信会社の子会社か何かですよね? その取締役なんですか?」
「うん。あの会社は僕の父が経営しているものなので、その見習いみたいなものですよ」

 中性的な甘い声を駆使して、大それたことをさらりと言って返してくる。思わず背後に瓜二つである我が兄の顔が出てきてしまったけど、どうやらこちらはとんでもない御曹司様のようだ。

「でも嶋田さんって、まだ高校生ですよね?」
「高校二年。今度仕事の都合で翠ケ丘高校へ転校することになってね。今日はその下見だったんだ」
「へっ……?」

 それ、あたしが今通ってる高校だ。

「その制服着てるってことはテセラムーンさんも翠ケ丘高校に通ってるんですよね?」
月夜野楓。それがあたしの名前です。翠ケ丘高校の一年です」
「そんな緊張しなくてもいいよ。僕は貴女と比較してもただの高校生に過ぎませんから」

 子犬のようにくすんと笑う顔は、あたしの顔の筋肉をさらに強張らせた。確かにあたしは多少は有名なVTuberで、ただしアイドルとしては完全に無名だ。そんな人間とどこかの会社の取締役様とはさすがに比べてはいけないような気がする。
 いやそうじゃなくて、あたしが確認したいのはそんなことではなくて。

「……すみません。あ、あの、つかぬことをお伺いしますが、宗達さんに御兄弟はいらっしゃいますか?」
「兄弟?」

 駄目。いくらなんでも話が唐突すぎる。あたしはなぜこんな質問の仕方をしてるのだろう?

「妹が一人だね。まだ中学生だけど」
「お、弟さんは?」
「いないよ。……どうしたの? なんだかさっきからさらに緊張してしまった顔に見えるけど」

 弟は、いない。つまりはただ似てるだけ。

「いえ。あたしの知人に嶋田さんに似ている人がいたので、少し気になって」
「そうなんだ。……ひょっとして、その人って月夜野さんの好きな人なのかな?」
「ち、違う。そういうのじゃなくて……」

 兄だ。頭に『義理の』がつくけど。

「小さい時からずっと一緒にいて、あたしのことを大切に想ってくれてる人……」
「大切な幼馴染か。だから僕の顔見てさっきから緊張してるんだね」
「……そう。そのはずなのに、あたしは彼に反発してばかりで……」

 というか初対面の人を相手に、一体何の話をしているのだろう。

「ふーん、そうなんだ」

 ただ嶋田さんはそんなあたしの言葉を茶化したりすることなく、そのまま素直に受け止めてくれている。その顔の内心は、何を考えているのかよくわからない。ただ柔らかい温かみをあたしに与えてくれた。

「彼にひどいことを言って困らせてばかりなのに、彼はずっとあたしの味方でいてくれて……」

 そんな彼の前で、まるであたしは鏡に向かって話しかけてるような気がした。
 今あたしの目の前にいるのは、兄ではない。ついさっき会ったばかりの、見ず知らずの人。だけどその面影は兄に著しく近くて、あたしの言葉に大袈裟な相槌などもせず、ほとんど黙ったまま聞いてくれる。
 その鏡を前に、あたしの顔と兄の顔がぼんやりと重なっていく。ただし完全に重なることもない。兄とあたしは同学年の義理の兄と妹。血の繋がりなんてものはないから、ぴったり重なるなんてありえないのだ。

「……あたし、悪い子なんですよ。他人から見えるあたしよりも、ずっと」

 自分と重なっていく彼の顔を、あたしはずっと殺そうとしているのだから。

「本当の悪い子は、自分のこと悪い人だなんて言わないんじゃないかな?」
「え……」

 ここで嶋田さんは初めて、あたしの言葉に反発を返してきた。

「僕の知ってる月夜野さんは、テセラムーンとして奏でている音楽が全てだと思ってるから」
「音楽……?」
「そう。それが何物かはわからないけど、何かを訴えてくて、自分の感情を爆発させたくて。月夜野さんの音楽にはその想いが熱く凝縮されてるような気がするんだ。今君が言ったように、その中には悪の感情も含まれてるかもしれない。でもそれだけではなくて、きらきらした感情もあの曲の中から感じられる。そもそも月夜野さんの音楽で伝えたいものって、悪の感情ってわけではないのでしょ?」

 そもそもあたしはなぜ音楽なんてやり始めたのだろう? 有名になりたかったから?
 ふと先日、月香から『なぜアイドルになろうと思ったの?』と言われたことも同時に思い返している。

「芸術って結局のところは感情表現だと思うんだ。いくら流行りの生成AIが何かを創り出したところで、人間が創ったそれには全然追いつかないんじゃないかって僕は思う。創り手には感情があるから。それに突き動かされて、受け取る側も共感する。君の作品だってそうなんだろ?」
「それはさすがに持ち上げ過ぎではないですか?」
「そういうところ。いつも月夜野さんの作品はピュアで、気取ってなくて。だけど普段は隠しているはずの内面がその音楽の中だけではだだ漏れになってる。でもこれって、君も気づいてないのかもね」

 一瞬、何の話をしているのかわからなくなった。あたしの作る、音楽の話……だよね?

「何を隠しているのかまだわからないけど、根っこの部分では優しくて弱い存在であるのに、外面だけはそれに負けないようにと必死で頑張ってる。虹色ゴシップの動画も観させてもらってるけど、君は常にクールビューティーな自分を演じてる」
「演じてる……って、別にあたしは」
「まぁ誰かから届く手紙を聞いてるときだけは、素の月夜野さんに戻ってる気もするけど」

 …………。嶋田さんから兄からの手紙の話を持ち出されるとやや複雑だ。理由はよくわからないけど。

「ねぇ。月夜野さんの連絡先を聞いてもいいかな。僕も来週からは君と同じ高校に通う先輩になるわけだし、これもなにかの縁だと思う。何かに困ってる時には、君の力になれると思うよ?」

 そう言うと嶋田さんは恐らく手に入れたばかりであろううちの学校の生徒手帳を、あたしの前に差し出してきた。先程の名刺と生徒手帳に書かれたそれと見比べて、住所と連絡先が一致していることを確認する。自分は怪しいものではない。そう認めさせるための行動なのだろうけど、やはり紳士らしさを覚えた。
 だからあたしは、ほとんど躊躇なくスマホを取り出し、彼と連絡先を交換することにしたんだ。

 嶋田さんも自分のスマホを取り出そうと、ファミレスのソファのやや深い位置に座り直し、鞄の中を漁り始めた。彼が急に顔を崩し、小さな笑みを零したのはこの瞬間だったように思う。だけどそのシグナルを完全に見落とし、そのまま連絡先を交換してしまう。あたしのスマホには嶋田さんの連絡先IDが映っていた。

「おいおい。ここで簡単に俺と連絡先を交換してしまうのは防御が甘すぎないか?」
「は……?」

 突然の掌返し!? 一人称も「僕」から「俺」に変わってる。

「一介のアイドルさんが容易にこんなことして大丈夫なのかって。もう少し自分を大切にしないと、後で痛い目を見るぜ?」
「な、なによ!! そんなの、あんたに言われなくてもわかってるわよ!!」

 突然の豹変ぶりに、あたしの頭は混乱していた。つまりあたしはあっさり騙されたってことか。だけど連絡先を交換してしまった後ではもう遅い。彼のスマホからあたしの連絡先を消すことはもう不可能だろう。

「か、帰ります!」
「気をつけてね〜」

 あたしはテーブルの上に千円札一枚をぼんと置き席を立った。チョコレートパフェ一つ分だから、それでも十分お釣りが返ってくるはず。彼は奢るとは言ってたけど、鼻っからそのつもりはなかった。

 でも……。振り返ることはしなかったけど、歪な違和感が残ったのも事実だった。だけど恐らく彼があたしの学校に転校してくるのは間違えない話なのだろう。あたしは学校で、彼に何かされないだろうか。

 その違和感の正体はわからないけど。そもそも学年だって一つ上のようだし。

☆ ☆ ☆

「おい爺。なんで何事もなかったように黙ってそこへ座ってるんだよ?」
「これは宗達ぼっちゃま。気づかれておりましたか」
「香水の匂いだよ。それでバレないほうがおかしいだろ」
「ふぉっふぉっふぉっ。私は鼻が慣れすぎてしまい、むしろ気づきませんでしたよ」

 彼はファミレスの背後の席、つまりは背中合わせで座っていた初老の男性に声をかけていた。互いに顔を見ず、まるで密談でも交わしているかのようなその様は、恐らく他の客にも気づかれていない。

「……で、爺が声もかけずにそこで聞いてたってことは、まさか月夜野さんに用事でもあったのか?」
「いえ。そんなことはございませぬ。……ただ、偶然というものは実に怖いものですな」
「偶然? なんだそりゃ??」
「まぁぼっちゃまがこの街に引っ越された時点で、偶然ではなく必然だったのかもしれませんがね」
「なんだよそれ。とにかく親父が月夜野さんに危害を加えようとしているわけではないんだな?」
「ええ。その点につきましては仰るとおりにて。ご安心くださいませ」
「……くそっ。もう少し月夜野さんと話してみたかったのに、飛んだ茶番してしまったぜ」
「ま、来週にはぼっちゃまも楓嬢と同じ高校に通われます。その時にでも」
「楓嬢……ねぇ。なんか言い回しが引っかかるんだがな」

 彼がそう呟いた頃には、既に初老の男性は忽然と姿を消していた。音もなく立ち上がると、いつの間にか二座席分の伝票を手にして、レジの方へと向かっていた。
 手持ち無沙汰となった彼は諦めの顔を隠しきれず、そのまま黙って男性の後を追いかけていた。