しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

流れ降る星の雨音 〜楓〜 003『無機質なメトロノームの変拍子なワルツ』

 女子高生アイドルユニット『虹色ゴシップ』のデビューライブまで、あと一ヶ月ほどと迫った六月の中旬。雨ばかりで、すっきりしない毎日が続いている。何がこんなにモヤっとした気持ちを造り出しているのだろう。あらゆることが起こりすぎてるせいで、曖昧な毎日だけが刻々と過ぎてしまう。

「なぁ。最近の月香って……」
「…………」

 場所は事務所三階にあるレッスン室で、かれこれ一時間以上踊り続けている。あたしは少しだけ休憩を取ろうと隅にあった椅子に腰掛けると、その瞬間を彼は見逃してくれなかった。

「…………」
「なによ。あたしに聞きたいことがあるならはっきり聞けばいいでしょ?」

 彼の名前は上郷理月。月香と同じく中学からの同級生で、今もクラスメートだ。彼がここにいる理由も月香と同じで、『虹色ゴシップ』専属プロモーション補佐係であるため。ようはただのバイトだけど。
 少し前まで月香は上郷君の部屋に寝泊まりしてたらしい。あの異世界転生事故が起きた瞬間、黒峰洋花は津山月香と名前を変え、自分の生徒手帳に書かれていた住所は上郷君の家に書き換わっていたのだとか。そんなご都合主義、この世のどこに存在してくれてるのだろうと本気で思ったくらいだ。

「あいつ、月夜野のことを困らせてたりはしないか?」
「…………」

 そう聞かれたところでどう答えればよいのか、あたしにもよくわからない。
 勝手にあたしの部屋の居候になり、原因はこの彼との痴話喧嘩。いい加減仲直りしてくれと思わないことないけど、だからといって別れた男の部屋に強制的に連れ戻すのもどこかおかしな結論に思えた。もっとも月家から話を聞いてる限り、ただすれ違っただけで互いに嫌いになったという話でもなさそうだけど。

「正直、僕は月香にどう謝ればいいのかまだわからないから」
「だからといって言葉を交わさなければ何も変わらないわよ?」
「わかってる……けど……」

 月香の話も混ぜ合わせると、互いにまだわだかまりがあって、その力は上郷君の方が強く感じられる。そもそも月香は転生前からマイペースで、他人のことを気にする素振りはこれまで常になかった。そんな彼女が上郷君と喧嘩できるようになっただけでも、実は信じられない話なのかもしれない。

 それにしても自分のことを棚上げして、よく他人のことを言えたものだ。喧嘩できる関係は、喧嘩できない関係よりよほど健全で、なぜなら互いの言葉をぶつけ合えるのだから。

 相手をいかに殺めるか? 言葉なくそんなことばかり考えている、あたしと兄の関係に比べたらね。


 それからは何故か気が晴れないまま踊り続けていた。気づくとその怒りをダンスにぶつけていたようだ。上郷君はそれっきり月香の話をしなくなり、あたしは逃げるようにダンスレッスンに戻ったが、このもやもやを彼のせいにするのは筋違いのように思う。嫌なことばかり思い出させてくれて、だけど……。
 鏡の前で、醜い自分と睨めっこを続ける。だけどこんな大きな鏡から逃げれる場所なんて、存在するはずがない。どこへ逃げてもあたしの惨めな顔はついてきてしまう。

 本当にむしゃくしゃする。……そうだ。これはあの時と同じ感覚だ。

「荒れてるね〜。そんな顔してたらお客さん喜ぶどころかみんな逃げ出しちゃうよ?」

 気がつくと窓の外は日が沈んだ直後で、薄っすらとした橙色の空が暗闇に変わろうとしていた。光は照明の灯りだけが頼りになっていて、『虹色ゴシップ』の他のメンバーもいつの間にかいなくなっている。残されたのは、あたしと月香だけ。部屋の合鍵を預けているのだから、先に帰ってくれてもよかったのに。

「まるであの頃のカエちゃんみたい。そんな風に踊り続けたらまた大怪我しちゃうよ?」
「その時はその時よ。むしろ貴女みたいに消えてしまえるなら本望かもしれないし」
「さすがにそれは赦されないよ? せっかくお兄さんに救われた命なんだから」
「…………」

 だからって貴女にだけは言われたくない。

「ひょっとして、あの時の怪我って自分で死のうとしたやつでしょ?」

 そう……だけど、自ら命を絶とうとした者どうし、互いにそれを批判し合うのはルール違反というやつ。
 あたしは月香の言葉に耳を貸さず、頭の中に曲を思い浮かべながら無言でダンスを続ける。メトロノームの無機質な音だけが、レッスン室に鳴り響いていた。

「つまりカエちゃんは死ぬつもりだったのに、それを運良くお兄さんに救われたと」
「運良く? だからなんだってのよ。あたしが望んでなかったこと、勝手に恩着せがましく……」
「ふふっ。本当にそれだよね。なんで私たち、生きてるんだろ?」
「…………」

 そう返されると怒る気力さえ失せてしまった。本当に付き合いきれない。

「でも、私はあの頃のカエちゃんのダンス、大好きだったな」
「……貴女、あたしがダンス教室通ってた頃の姿なんて見たことあるの?」
「通ってたのって駅前のダンス教室だったでしょ? あの教室って通りから丸見えで、あ、踊ってるって」
「…………」
「カエちゃんいつも殺気立ってて、ダンスにいっつも緊迫感が満ち溢れてたし」
「それ、本気で褒めてくれてるの?」

 あれを見られていたのか。月香の小さな笑みに小っ恥ずかしささえ覚える。

「私ちょうどその頃ダンスレッスンに通う女の子の役をやってたから、カエちゃんを少し参考にさせてもらってたんだよ」
「もちろん覚えてるわよ。家族に見放されて、ダンスに没頭する女子中学生だったわよね」

 そのドラマが放映されていたのは、中二の頃だったか。あたしがあの怪我をする直前だったから、間違えなくその辺りだ。黒峰洋花が演じるその少女は、薄っぺらい家族愛を前に強固な壁を造り出していた。他人の前では絶対に感情を出さない女の子は、踊る時だけその顔を露わにする。時に泣いて、時に激しく、ダンスでしか自分の感情を表現することができない不器用な少女の顔。
 そんな彼女を黒峰洋花は持ち前の重厚な演技力で自然に演じていた。あたしだってそのドラマに魅了されてしまったうちの一人だ。紛れもなく、自分とその少女を照らし合わせていたからに他ならないけど。

 ……ん? いまこいつ『カエちゃんを参考』って言った? あたしのダンスではなく??

「あれ、結構難しい役作りだったからね。何か参考にならないかなって駅前を歩いてたら……」
「駅前歩いてたら人殺しのような目で踊ってたあたしがいたとでも言いたいわけ?」
「だって学校でのカエちゃんと踊ってる時のカエちゃんって全然別人なんだもん」
「やっぱし。ダンスじゃなくてあたしそのものをトレースしたって今白状したわよね!?」

 本当にアホらしい。あのドラマにあたしが没頭しすぎたのは、あたし自身が黒峰洋花演じる彼女を重ね合わせすぎただけなのだろう。急激な脱力感だけがあたしの全身を襲ってくる。
 とはいえドラマを観ていた当時はそんなこと微塵も感じたことはなかった。ごく自然に存在する一人の小女として、あたしとは異なる別の彼女が確かにいて、それを演じきるだけの黒峰洋花の演技力が間違えなくあたしの想像力を上回っていたということ。

「でもカエちゃんのダンス、やっぱり私は好きだったよ。こんな風にさ!」

 すると月香は手慣れた操作でメトロノームの速さを変更すると、彼女の左手があたしの右手をきゅっと掴んできた。メトロノームの心拍数は、次第にワルツのテンポへと歩調が合っていく。どこで覚えたのだろうと不思議に思える程の月香のステップは、優しくあたしを誘ってくる。
 あの彼女を演じた黒峰洋花とはやはり違う。殺気もなければ、緊迫感もない。ただただ優雅に。

「やっぱしね。カエちゃんだって一応楽しそうに踊れるじゃん」
「は? 何言ってるのよ??」

 そもそも一応って何? だけど月香の言うとおり、さっきまで引きつっていた顔の表情が緩んできていることを自覚する。それでも月香の挑発には強く否定してしまったのは、月香が何を言いたいかなんて、正直わかりきっていたからだ。

「カエちゃん、お兄ちゃんのこと大好きなんでしょ?」
「好きって……兄はあたしの兄よ? 好きとかそういう感情じゃなくて……」
「だけどカエちゃんとお兄ちゃんは、血の繋がりとかないんだよね?」
「だからなんの話をしてるのよ?」

 メトロノームがリズム良く鳴り響き、月香とあたしは摩訶不思議なステップを重ね合わせる。

「義妹って表現でいいんだっけ? 確かそういう関係って、結婚もできるんだよね?」
「何バカなこと言ってるのよ? あたしが生まれた時から兄は兄よ。そんなこと考えたこともないわ」
「ま、お兄ちゃんもきっと同じこと思ってるんだろうけどね。命を助けた大切な妹みたいなさ」
「……なにそれ? ようは貴女があたしをからかいたいだけでしょ」

 頭の中だけに流れるメロディーは、くるくると狂い始める。メトロノーム機械的な音と混ざり合い、聴いたこともないような変拍子があたしのステップをも狂わせていた。
 にもかかわらず、あたしの乱れた波長に月香はしっかり合わせてくる。憎たらしいほど魅力的で、馬鹿らしくなるほど天才的なセンスを、あたしに真正面からぶつけてくるんだ。

「カエちゃんももっと素直になればいいのに」
「それを貴女にだけは言われたくない」

 こんなどうしようもないことを指摘されたところでどうしろというのだ。

「あたしは……両親の記憶から兄という存在を消すために生まれてきたの。それが達成されない以上、あたしに生きてる価値なんてない! 素直って、何? そんなのあたしに赦されてるわけないじゃない!!」

 兄を殺さなければいけないという使命も、兄とあたしの距離感も、全てあたしがこの世に生を享けた時から何一つ変わっていない。その運命がある限り、あたしは兄と自分を憎み続けなければならない。
 誰も傷つけずに運命をやり過ごすのであれば、あたしが消えるしかないのだから。

「だったらカエちゃんは、なんでアイドルになろうと思ったの?」

 だけど唐突に飛び出した月香の質問は、咄嗟に返す言葉が見つからなかった。そのままあたしを硬直状態へと陥れる。そもそもそんなの知らないわよ。兄を許せなかったから、見返してやろうと思っただけ。どうしてそれが見返すことになるのかなんて、あたしにさえわかりっこないけど。

 あたしが嘘つきだと思われるなら、それでも構わない。
 あたしはただ醜いだけ。

 ……でもそれは、月香も一緒でしょ? 何もかもをやめたくなるまで、芸能界なんて続けてさ。
 こんなにも美しく舞い、高く飛べるはずなのに、それでも踊ることを止めてしまったんだよね?