あっという間の時間だった。終わってしまえばなんとでも言えるけど。
陽川さんも緑川さんも、幼い頃から子役として舞台の上に立つことはあったらしい。今日のライブ会場より大きなステージで、何度も本番の舞台を踏んでいたそうだ。だけどあたしにとっては初体験そのもので、クラッシックバレエの発表会だってこんなに沢山のお客さんが観に来ていたことはなかった。千人規模のライブ会場にぎっしりと人が埋まるほど。視線はあたしたち三人だけに向けられて。
『虹色ゴシップ』初ライブは、ほぼステージ台本通り問題なく進み、終演した。ほぼって言うのは、およそ緑川さんの突拍子もないアドリブが原因。しかもその若干の変更は、ほぼ緊張気味だったあたしを弄り倒すこと。前に緑川さんに聞いたことがあったけど、声優というお仕事はアドリブができないとやってられないらしい。実に身も蓋もない話だった。
ただしさほど緊張もなく最後までできたのは、やはり緑川さんのおかげかもしれない。改めて感謝の言葉を口にしたいとは思わないけどね。
「カエちゃ〜ん、誰か外で待ってるよ〜?」
楽屋でステージ衣装から着替え終え、荷物をまとめていたところに陽川さんの声が届く。既に一般のお客さんは帰った後だし、この時間まで待っているのは関係者の誰かだろう。
「うん、ありがとう。今行きます」
誰だろう? ひょっとして緑川さんが誘っていたという、兄だろうか。
だけど兄とは春に高校へ入学して以降、一度も会っていない。もっとも互いに実家で暮らしている頃から兄とは気軽に話せる仲というわけでもなく、ずっと疎遠な関係だった。だからこんな場所で再会したところで、あたしはどうしたらよいのかわからなくなるのは自明だ。
……兄と、今更何を話せばよいのだろう。
「お疲れさま。楓嬢さん!」
「……って、あんたかよ!?」
だけどドアの向こう側であたしを待っていたのは、顔こそ瓜二つながら、声音は兄よりやや高めのこいつ。こいつはこいつで、今更話す内容など何もないのだけど。
「おや? 誰だと思ってたのかな?」
「……べ、別に誰だっていいでしょ!!」
「そんな風に照れるカエちゃんもなかなか可愛いよねぇ〜」
「おっさんみたいなノリで話しかけてくるな!!」
それにしてもさっきまでの異様な緊張感はなんだったのか。
「まぁでも別に僕のことを嫌ってるわけでは…………あ」
「あ?」
嶋田さんの急に気の張った声と視線の先に、思わずあたしも振り返ってしまう。そこにはあたしより先に楽屋を出ていったはずの緑川さんが、一人の男子と一緒に歩いていた。仲良さそうに会話する二人の光景に、あたしの胸は急速に高まっていく。
「お兄ちゃん……?」
嶋田さんはあたしのすぐ後ろにいる。だから今日は絶対に見間違えようがなかった。
向こうから歩きながら近づいてきた二人は、やがてあたしの存在に気づく。が、その瞬間緑川さんは『げっ』と声を上げ、そそくさとその場を離れてしまった。『ちょっと待て』とすかさず追いかけたのは嶋田さんだ。……前から思ってたのだけど、嶋田さんと緑川さんって一体どういう関係なのだろう?
意図的なのか、偶然なのか。あたしと兄は思わぬ形で取り残されてしまった。
「楓。……元気してるか?」
「う、うん……」
空白を表す間の取り方は、互いに春から何一つ変わっていない。春にそれぞれが実家を飛び出してから、まだ三ヶ月ちょっとだ。そう簡単に何かが変わるわけないか。
「さっきの彼……楓、あの人と付き合ってるのか?」
「なわけないでしょ! ただのストーカーよ」
「そ、そっか……」
強い反発に、兄は少し驚いているようだった。急に大きな声を出したからびっくりさせてしまったかもしれない。もっとも本気で鵜呑みにしたわけではないことはその顔を見ればわかる。自分に顔瓜二つの人間が妹のストーカーだと言われたところで、何をどう信じろというのかわからなくて当然だよね。
「お兄ちゃんはさっきの人と知り合いだったりするの?」
「別に……。まぁ緑川の知人って時点であまり関わりたくはないけどな」
「確かに」
恐ろしく同意だ。別に緑川さんを悪く言ってるつもりはないけど、それはなんとなく。
「じゃあ……さ。緑川さんとは仲がいいの?」
「ん……?」
兄はじろっとこっちを見てくる。僅かに緊張の色があたしの顔に現れてしまった気がする。
「仲がいいと言うか、ただの同居人……?」
「なんでそこ疑問形? てゆか前から思ってたけど、お兄ちゃんの住んでるとこって男子寮だったよね?」
「そもそもあいつが緑川学園のお嬢様だからな。今更それをツッコんだら負けだろう」
「ですか」
「ですね」
それってつまり緑川学園の学園長、緑川さんの父親の陰謀ってことか。さっき緑川さんに関わりたくないってお兄ちゃんが言った理由もなんとなく想像できてしまった。
「でもあいつ、『寮を出てわたしもカエちゃんみたいに一人暮らししたい』とか言ってたから、そのうち家出でもするんじゃないかな?」
「家出……。言い得て妙だね」
「本当にそう思う」
小さな笑みを浮かべる兄も嫌いではないけど、それより兄の緑川さんの声真似が個人的にハマってしまったのは、あたしだけの秘密だ。
「じゃあようやくお兄ちゃんも寮で一人暮らしになれそうなんだ?」
「あれ、言ってなかったっけ? 俺の部屋、もう一人同居人がいるぞ」
「あ、そうだったんだ。でもそしたらこれでようやく男子寮だけで男子だけの部屋に……」
「いや。そのもう一人も女子なんだけど?」
「……はい???」
どうでもいいけどなんでさっきから語尾が疑問形なんだろう?
なぜだろう。今日は素直な気持ちで兄と話せている気がする。実家にいた頃よりも、明らかにずっと。
いつも同じ時間軸の中で生きてきた兄とあたし。それが春に互いに家を出て、それぞれの新しい環境で暮らし始めている。これって、懐かしさというやつだろうか。今日はお互いの時間の埋め合わせでもするかのように、自然の流れで会話している印象があった。
でも本当にそれだけかな? 今日だって出だしはぎこちなかったはずだ。だけど今はこうして。
「あのさ……」
さっきまで生暖かい顔を見せていた兄が、急に言い淀んであたしのよく知る顔に戻る。
「なに……かな?」
少し恐怖を覚える。ううん。この気持ちを恐怖という言葉に変換すると少し語弊がありそうだ。
「前みたいに、無理とかしてないか?」
「前みたいに……?」
そもそも前って、何のことを指しているのだろう? 兄と共有していた時間を思い返してみる。何をやってもうまく行かず、氷山の山奥でかちかちに凍り固まった記憶の数々。自然解凍では到底解けそうもなくて、ハンマーで割ろうものなら簡単に粉々に砕けてしまう。
もう絶対に元通りに戻ることなどない、そんな兄とあたしの時間。
「楓、いつも人でも殺してしまうんじゃないかってくらい気を張ってたからさ」
「…………」
そりゃそうだよ。あたしは君をいつだって殺そうとしていたのだから。
君を殺せないなら、この世から滅びるのはあたしの方だったのだから。
「でもそうさせていたのは……楓にずっとそんな顔をさせていたのは、俺の方だったのかなって」
「それは違うよ! 兄さんには関係ない!!」
だって妹なのはあたしの方だから。これは全部あたしの問題だ。
君を殺そうとする理由も、あたしを滅ぼそうとする理由も。
「関係ないってことないんじゃないか? 義理でも一応兄妹なんだし」
「違うって。兄妹だからだよ。あたしが生まれてきたから、兄さんは兄でいるしかなくなった」
「ん? どういう意味だ……?」
……そう。もしかしたら兄さんは気づいていないのかもしれない。兄さんにとって、あたしは後から生まれてきただけの義理の妹。その存在はそういう形をしているだけで、普通の義妹と変わらないのか。
でもあたしにとっては違う。あたしが生まれたその瞬間に、兄は家族の異分子でしかなくなってしまったのだ。あたしは両親ともに血が繋がっていて、兄は両親の誰とも繋がりのない、形だけの家族。他の人がどう思っていようが、兄をそんな存在にしてしまったのは紛れもないあたしであるということ。
兄よりあたしが先に生まれていれば、あるいはあたしの方が誰とも繋がりのない家族であったならば。
あたしは生まれたその瞬間から、あたしが生きる意味を見失っていたのだ。
「そんな顔……俺はずっと楓に怖い顔ばかりさせてきたなって」
「えっ……?」
急に身体が軽くなる。理由は、その言葉と同時にぎゅっと兄に抱き寄せられたからだ。
「ちょっ……」
「ごめんな楓。いつも俺が楓を守ってやれてなくて」
「ちが……そうじゃなくて……」
ここはライブ会場の楽屋前。いくらお客さんが帰った後とは言え、他人の目があるのは事実だ。
「他人の目なんて、どうせ俺と楓は兄妹なんだし」
「いやだから兄妹だからこういうのって……」
「でも本当は兄妹じゃないだろ?」
「…………」
難しいことを言う。だからどっちだ?
「そういうのどっちでもよくて、俺は楓をそんな風に悩ませたくなかったんだ」
身体は軽く感じてるはずなのに、心の方はずしりと重かった。締め付けられるような痛い想いと、今すぐここから逃げ出して消えていなくなりたいと願う気持ち。こんなだからあたしは兄を殺せなかったのだと。
「兄妹だからなんなんだよ。そんなの関係ないだろ? 楓は、楓なんだから」
あたしが、何? あたしがここに生きてる価値なんて、そんなの探したところで今更仕方がないもの。
「楓は俺よりずっと頑張り屋だから、そういうの一人で背負い込んでさ」
あたしが君より後に生まれたのだから、そんなの当然でしょ?
「何から何まで全部一人で解決しようとしてくれる。でも、もうそういうのはいいから」
「こんなのあたしが勝手にやってるだけ。勝手に君を殺そうとして、勝手にあたし自身と消そうとしてるだけ。君には関係ないことじゃないかな?」
「俺が楓に殺されるって言うのに、それが関係ないなんてあり得ないだろ」
兄の顔は半分笑って、半分本気で怒ってる。当然だ。
「だからあたしはあの時……」
思わず言いかけて、ふと思いとどまる。
「やっぱりあの事故は故意の事故だったんだな。……それもそうか。楓は最初から死ぬつもりで、自分の身体のことを一切気にせず、ダンスの練習を続けていたわけだし」
「…………なんで?」
バレてた。ダンスの練習中に大怪我をして、あたしは一時的に植物状態になった。本当にこの世から消えるつもりだったから、兄にその命を助けてもらうなんて本末転倒だったんだ。それなのに……。
「楓があの時どうしたかったのか、俺だけじゃなくてノゾミにもバレバレだったぞ?」
「…………」
……どうでもいいけど、ノゾミって誰??
「なぁ。俺に妹がいるはずだったって話、楓は知ってるか?」
「それって、あたしじゃなくてって意味?」
兄はこくりと首を縦に振って頷く。そんな話聞いたこともない。
「楓の父と、俺の母親の子供だとさ。だけど結局この世に生まれてくることはなくて、俺の母親と一緒にその身体は消えていなくなってしまったんだけどな」
「てことはその子は……」
「もし生まれてきていれば、俺と楓を繋ぐ架け橋のはずだったんだ。けど生まれてくることができなくて、俺の妹はお前、楓だけが生きている」
あたしの、姉? 兄とあたしの血を繋ごうとしていたはずの……。
「だけどそいつが言うんだ。『ボクが生まれてこれたらカエちゃんを悩ませることもなかった』ってね」
……ごめん兄さんちょっと何言ってるかわからないけど。
「でもそう考えたら、楓がここに生きる意味って、俺を殺すためじゃなくて、俺を救うためだったんじゃないかって思えるんだ。もしもノゾミが生まれてくれば俺と楓の溝をノゾミが埋めてくれるはずだった。だけどノゾミがいなくなっただけでその意味は変わりようがなくて、もしかしたら楓はノゾミの代わりに俺を救う存在だったはずじゃないかって」
「そんなの……綺麗事で、今更じゃないかな?」
兄は首を横に振った。優しい瞳で、あたしをこう諭してくる。
「今更なんかじゃないよ。だって、楓は俺を殺そうとはしなかっただろ?」
「…………」
「だからそれでいいんじゃないかって思うんだ」
「それ……って?」
誰もいない楽屋前の廊下に、兄の温かい声が強く響いた。
「楓は楓らしくしていればいいって。俺のことを気にする必要なんて絶対になくて」
廊下の向こう、視線のずっと奥にあった花束が、小さく霞んで見える。目をこすり、もう一度兄の顔を対面した。やはりうっすらと浮かんでいて、兄がどんな顔を今しているのか、わからなくなっていた。
気がつくとあたしは、音もなく静かに泣いてしまっていたんだ。