しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

流れ降る星の雨音 〜楓〜 005『偽の家族の中の迷子』

 六月最終週の月曜日の朝。雲の晴れた高校の昇降口は、ややざわつく気配があった。
 昨日は遅い時間まで『虹色ゴシップ』ファーストライブに向けたレッスンがあったので、体力的にややしんどい。月曜日からそんな調子でいいのかとか、高校生なんだから弱音を吐くなとか、そんな正論どうでもいい。しかもグループのメンバーである遥華さんも碧海さんも小さい頃から子役をやっていたせいか、恐ろしいほどの体力自慢の女子なのだ。あたしだってクラシックバレエを習ってた経験があるわけだし、体力にはそれなりの自信があったはずなのだけどな。二人に合わせてのレッスンとか、本当に無理。

 また長い一週間が始まる。それだけで気が重いのに、今朝のこの喧騒はなんだろう?

「ねぇカエちゃん聞いた? 今日から転校生が来るって!」

 月香だ。実は先週金曜日に学校で別れて以来、結局うちには戻ってこなかった。後でチャットで確認したところ、『元の家に戻るね』とだけ返事があった。元の家ってことは、上郷くんと仲直りできたのだろうか。まぁ何かと五月蝿い居候がようやくいなくなって、ほっとしたのも事実だけど。

「転校生って……そもそも二年生じゃなかった?」
「なんだ、カエちゃんもチェックしてるじゃん。先週見かけた人がすっごくイケメンって言ってて」
「イケメンねぇ……」

 前世で国民的美少女と呼ばれていたはずの月香がそれを言ったところで、あまり説得力を感じない。貴女だって数多の美男美女に囲まれていたわけで、こんな小さな街のごく一般的なイケメン高校生なんて、比較するのも失礼に当たるんじゃないの?

 というより転校生って……あの、彼のことでしょ。
 確か来週は同じ学校に転校してくると言ってたわけだし。

「こんにちは。あるいはおはようかな? テセラムーンさん」

 ……そう。こんな中性的な甘い声で。

「何か用ですか? ここは一年生が学ぶ教室ですよ?」

 そう噂をしていれば、彼はあたしの机の目の前に立っていた。月香はすっとあたしの傍から離れていき、クラス中の皆もあたしの周囲から一気に離れていく。気づくと視界には彼一人のみ。……何この状況?

「冷たいなぁ。先週ファミレスで一緒にデートした仲とは思えないレベルなんだけど」

 そして彼に集まっていたはずの視線は、急にあたしの方へ襲いかかってくるんだ。つ、冷たい。

「そのデートで塩対応してあたしに千円出させるとか、男としては最低なことしてくれましたよね?」
「そうそう。今朝はその千円札を返しに来たんだよ」
「は?」

 どこの御曹司様だったか忘れたけど、対応のケチ臭さに思わず拍子抜けしてしまう。微かに「デートしたのは事実なんだ」という声も聞こえてきたので、一旦ここでは千円札を受け取らず「後で連絡しますから」と彼には伝え、自分の教室へ帰ってもらうことを優先した。

 隣にいた月香も不思議そうな顔を彼に向けている。間違えなく良からぬことを考えているのだろう。


 彼を呼び出した場所は、放課後の学校近くの喫茶店。「ここでちゃんとエスコートしてくれたら許してあげる」と、あたしの千円は彼に委ねることにしたんだ。今日のダンスレッスンの時間までは少しだけ時間が空いていたし、彼もそれくらいの時間ならというのでお互い合意に至る。
 そのはずだったんだけど……。

「てかなんで月香までここにいるのよ!?」
「え。二人が喧嘩しないように?」

 そしてなんで疑問形?

「心配していただかなくて大丈夫ですよ。僕は楓嬢を傷つけることなどいたしませんから」
「あんたはどの口でそれ言うの??」

 一人称が会ったばかりの頃の「僕」に戻っている。しかもあたしのことは「楓嬢」とか、こいつにそんな呼ばれ方をされる筋合いは一ミリもない。

「てゆか嶋田さんってカエちゃんのお兄さんにそっくりだったから、どんな人なのか気になって」
「そういえば楓嬢も僕の顔見て『大切に想ってくれてる人にそっくり』って仰ってましたね。それって楓嬢のお兄様のことでしたか」
「そっくりも何も……」
「その話はもういいから。あたしの兄の話なんか、貴方全然興味ないですよね?」

 ……だって先週は兄のことではなく、あたしの音楽を褒めてくれたじゃん。

「かなり興味ありますけど」
「なんでよ?」

 調子が狂う。自分のどこかざわつく心を制御できないことに苛立ちを覚えていた。
 というよりなぜあたしは彼を喫茶店へと誘ったのだろう。教室のあの場で千円札を受け取るだけでよかったのではないか。わざわざこんな場所に呼び出す必要なかったのでは?

「カエちゃんのお兄さん、緑川学園の特待生になるくらい超成績優秀なんですよ。それでいて優しくて妹想いで。こんなツンデレちゃんには勿体ないくらいのお兄さんなんです」
「おい」

 いい加減そろそろそれくらいにしてもらおうか月香。

「へぇ〜。それだけ聞くとお兄さんでは勿体ない気もしますね。恋人にしたい?……みたいな感じかな」
「無理だよ〜。だって大樹くん競争率半端ないし、カエちゃんにはどうしたって手が届かないって」
「ちょっと待ってそれあたしのこと女子としてまるで魅力ないって断言してない!?」
「カエちゃんの場合はまずそのツンデレの性格を治そうね。話はそれからだよぉ〜」
「いや。僕はツンデレでも十分興味あるし、むしろ可愛いとも思うよ?」
「だったらなんでそこ疑問形!??」

 人のことツンデレツンデレって。そもそもツンはあっても、あたし誰かにデレたことなんてある?

「でも競争率半端ない異性の人が恋人ではなく兄なんですよね? やはりこういうのは難しいものですね」
「いいえ。兄は兄でも義理なので恋人候補にはなれますよ。もっともカエちゃんには無理ですけど」
「…………」

 もはや何を返していいのかわからなくなってくる。てゆかそんなあっさり人の身内話を晒すんじゃない!

「義理の兄? ということは、楓嬢のご両親は再婚同士って話ですか?」

 ん? なぜ突然親の話になったのだろう?

「……別に。義理の兄って言っても、あたしが生まれた時から兄は兄でしたし。だから恋人とか……兄があまりに身近にいすぎるからそういう風に考えたことはなくて。血の繋がりだけが存在しない状態で、むしろ本当の兄妹と何が違うのだろうって」

 本人に確認したことはないけど、多分兄も同じように考えてると思う。あたしは彼にとっての義妹。義妹ではあるけど、本当の兄妹と同じ程度には互いの時間を共有している。だからフィクションであるような、義理の兄と妹に恋愛感情が芽生えるなんて、あたしには到底思いつかないんだ。

 それどころか……。近すぎるが故、危険な存在でもあるのだから。

「つまり、楓さんが生まれた時には既にご両親は離婚されてたと?」

 また両親の話。彼の話の進め方に、さっきからやや引っかかりを覚えてしまう。

「正確には、兄と兄の母親は死別なんです。父親はどこの誰だかわからない人。兄の母は元々身体の弱い人で、自分が今ここでいなくなっても困らないようにと、兄が生まれてすぐにあたしの父親と再婚をしたと聞いてます。だけどもう余命もわかっていたから、ほぼ形だけの結婚だったようです。その時点で父には婚約者もいたわけですし。なんだかおかしな話ですよね」

 その婚約者というのがあたしの母であり、あたしは父と母が婚約中に宿った娘であると言う。あたしがこの世に生を受けた時には、兄の母は亡くなっており、かくして父と母は二人の兄妹を授かることとなった。
 つまりは義理の兄妹であっても、兄には家族に血の繋がりのある人は一人としていないし、あたしの方は正真正銘、今の両親の娘でもある。

「なるほど……そういう話でしたか。先週の楓さんの話とひっくるめて、いろいろ合点しました」
「義理の兄妹とまでは聞いてたけど、そこまで聞いたのは私も初めてだったかも。本当に凄い話だね」
「別に、他人に理解してもらいたいとかそういう風には思ってもいないから」

 そもそも理解なんて、あたしですらできていない。事実を受け止めきれず、この運命とやらに振り回されすぎているようにさえ思う。

「だから、そんな兄に反発してしまっている……ということですか?」

 嶋田さんは包み込んでくるような甘い声で、そう尋ねてきた。……ああ、いつだってそうだ。この顔には見覚えがある。見覚えどころか、いつものその顔なのだから。

「わからないんですよ。だって、それならあたしが生まれてきた理由は何? 兄は義母から両親に託された大切な息子のはずで、それに対してあたしは家族の関係を壊すだけの望まれない娘であるはずで……」

 あたしの目の前の嶋田さんの顔は、兄のそれに重なっていく。もやもやする。その顔を見る度に、あたしは全てが許せなくなっていた。

 なんで兄は本当の兄でもないくせに、あたしに優しくしようとするの?……って。

「それでも、楓さんは楓さんなんじゃないかな?」

 そしてこうやって何もなかったように、兄はいつもあたしを受け入れてくれる。
 この手を素直に受け取れることができたのなら、きっと本当に仲良しの兄妹になれたはずなのにって。

「無理だよそんなの……。だってあたしが家族に甘えたら、孤立するのは兄の方なのだから」

 だからこそあたしにとって兄は危険な存在だ。あたしがその手を取れば兄は孤立し、兄が手を掴めばあたしの方が孤立する。二律背反。どちらかの存在だけが許されて、どちらかは許されることのない。

 あたしが兄を殺そうとしてるのもそれが理由。
 それができないのであれば、あたし自身がこの世からいなくなるしかない。

「ううん。違うよ。先週も言ったよね。そんな楓さんが秘めている内側の音楽が僕は好きなんだって」
「え……?」

 嶋田さんはそんなあたしを否定しようとする。正直、わけがわからない。

「まるで納得してない顔だね。だったら僕も一つ質問していいかな?」
「なんですか?」

 自ずと語尾が強くなる。兄に対しても向けたことのない、あたしも驚くほどの強い反発だった。

「楓さんは、どうして歌っているの?」
「そんなの……」
「君は正直にそれを答えられる?」
「…………」

 嶋田さんの目を薄くして、すっと睨んでくる。冷たいそれではなくて、どこか温もりさえ感じる視線。まるで全てを悟ったかのようなその顔は、あたしの全身を硬直させた。

「君は一刻も早く、大人になりたかったんじゃないかな?」

 大人に……? なぜそれがあたしの歌と結びつくのか。考えてはみるものの、何も思いつかない。大人になることと、あたしの迷いを解くこと。何の関係があるというのだ?

 あたしの迷い? ふと出てきたたった一つの疑問から、さらに数多の疑問で押し潰されそうになる。
 兄を殺すか、自分が死ぬか。ずっとそのどちらかが答えだと思っていた。これがあたしの迷いのはず。

 だけどそれと自分がアイドルを目指すとか、歌を歌うとか、どう関係があるというのか。あたしが大人になれば、この迷いも消えるというの? 信じられない。
 だってあたしの迷いは呪縛でしかなくて、永遠に消えることのない古傷なのだから。

 彼はそれっきりあたしの顔を伺いながら黙ってくれていた。
 すぐに出てくるはずのないあたしの回答を、じっと待ってくれているかのようで。

 だけど結局あたしは、その答えを導き出すことはできなかったんだ。