春の光輝く風を乗って、桜の花弁がふわりと校門の前へと舞い降りた。
入学式は今からちょうど一時間後。窓から外を覗くと、あどけない顔立ちでそわそわした素振りを見せる女子高生たちが、校門前に広がるピンク色の絨毯を歩いている。頼りなくも見える小さな身体は、勇気という目に見えない魔法を使って、緊張を少しずつ解きほぐそうとしてるのかもしれない。
初めて入る教室に、僅かに大きく感じる机。
無謀にも身体とそれらを比較して、己の未熟さを測ってみようと試みる。
だが返ってくる答えは、何もない、無機質なそれ。
「よっ、大樹。俺ら高校入っても同じクラスだな」
「おう。よろしく頼む」
中学の頃からの同級生である拓海へそう返し、結局何一つ変わってないのだと実感する。そもそも何を頼もうとしているのか、自分でもわかっていないのだ。
「相変わらず無愛想なやつだな」
「悪かったな……」
「でも大樹って学生寮組だろ? そんな態度じゃきっと妬まれるぞ?」
「学生寮に入れたのなんて勉強した結果だ。妬まれることなんてないと思うがな」
「おいおい。そんな身も蓋もないこと言うなって」
どうしても家を出たかった俺は、特待生しか入寮できないという学生寮へ入るため、がむしゃらに勉強した。だが拓海の指摘は一理あるとも思えた。学生寮に入れなかった生徒から見れば、こんな何も取り柄のない俺に対しても、意味なく妬んでるやつがいるのかもしれない。
「それでルームメイトにはもう会ったんだよな? せめて同じ部屋のやつらとは仲良くやっておけよ」
「ああ。だけど、まだ会ってないんだ」
「まだ!? 部屋も既に決まってて、引っ越しだって終わってるんだろ?」
「それが昨日、突然学園長室に呼び出されて、急に部屋を変えてくれとか言われて」
寮長と名乗る人物から学園長室へ向かうよう指示されたのは、昨日ちょうど引っ越しの荷物を運び終わったばかりの頃だった。休憩もまともにできぬまま渋々学園長室へ向かうと、訪れた俺を待っていたのはその部屋の名の通り、学園長だった。学園長は俺の顔をじっと睨みつけた後、『部屋を移ってほしい。よろしく頼む』という二言だけを伝えてきた。それ以上の説明が何もないどころか、そのまま学園長室を追い出されてしまう。理由も、頼まれた内容も、正直わけがわからない。
「じゃあまだ新しいルームメイトの名前さえ知らないのか」
「ああ。でも寮長からルームメイトの一人は俺と同じ中学出身だって聞いた気がする」
「え、俺らと同中? それって……まぢかよ!??」
「ん? そんなに驚くことか??」
拓海はひたすらに目を丸くして何とも言えない驚き方をしていた。強いて表現するなら、黒猫が餌をねだっているかのよう。なぜそんな表現になったのか自分でもよくわからないのだが。
「だって同中で学生寮に入れたのって、大樹ともう一人は上杉透だけのはずなんだが」
「そうなのか? じゃあ、その上杉ってやつが俺のルームメートってことだな」
「……おい。それ、自分で自分の言ってることちゃんと理解してねえだろ?」
「なんのことだ? 上杉って何度か廊下ですれ違う程度だったけど、あの女みたいな顔したやつだろ」
上杉透と言えば、一見すると美形男子。男子の制服さえ着ていなければ女子と間違われてもおかしくないほどだ。中学三年間同じクラスになったこともないので、当然話をしたことはないのだが。
「なるほど。大樹がどういう認識してるのかよくわかったよ」
「は? それは一体どういう意味だ?」
「ま、とにかく自分の目で確かめるのが一番ってことだな」
「…………」
だが、これ以上めんどくさそうな話に関わる体力なんて今の俺にはまるでなかった。それ以上突っ込もうとは思わなかったし、思えなかったんだ。
「とりあえずそんな大樹に一つだけ助言しておく。もしそれが事実なら、帰宅直後の洗面所へ入る時だけは絶対に慎重に入るんだぞ。絶対だからな!」
「だからそれ本当にどういう意味だよ……」
拓海の言いたいことはよくわからなかったが、わかったことと言えば同じ中学だった上杉透がルームメイトになるとのこと。話したことがないとは言え、悪いやつとも到底思えない。むしろ真面目一直線の好男子。それならそれでいいじゃないか。
誰がルームメイトであろうと別に命を取られるわけではない。俺はあの家で自分を見失いそうになって、それこそ自分の魂が奪われるんじゃないかと思えたから飛び出してきたんだ。あんな環境に比べたら、どんな寮生活でもずっとマシに思えるんじゃないかってくらいに。
地面に落ちた桜の花弁は、もう一度ふわりと舞い上がった。ひらひらと風に乗り、ぴたっと窓の外枠に貼り付いたピンク色のそれは、俺の顔をもう一度じっと見つめてきたんだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
入学式初日は、まだ顔もほとんどわからない新しいクラスでホームルームがあった程度。高大一貫教育の進学校を謳っている本校であっても、初日から授業があるわけない。一日目の全スケジュールが終わると、向かう先は昨日から俺の住まいとなっている男子寮二号館だった。
男子寮とは言え、門限さえ守れば寮生ではない生徒も出入り自由の場所となっている。というのも学生寮が寮生の研究室という役割を兼ねているためだ。寮内で女子生徒の姿を見かけるのもそれが理由で、寮生である男子生徒が共同研究者として女子生徒を招くなんて話もあるらしい。入学試験の成績優秀者には高校生のうちから自分の研究に没頭できるようにと、そう配慮された造りになっているとのことだが、一応、少なくとも建前的には事実そうなっててほしいと願っている。
新しい部屋は八九七号室。広さ的には4LDKのマンションの部屋と同じ程度で、恐らく四人は暮らせる構造だろう。俺は昨晩もらったばかりの鍵でドアを開けようと試みるが、予想に反し、既に鍵は開いていた。
「あ、やっと帰ってきた」
部屋の奥の方から、キーの高い柔らかめの声が俺の耳に響く。
「大樹くんでしょ? いつまでもそんなところいないで、早くこっち来てよ〜」
まるでドキュメンタリー番組のナレーションを生で聴いてるかのような、心に染み込んでくる生暖かい声。リビングにいると思しき声の主の女性の顔は、まだ見えない。だが俺の名前を知ってるということは、俺が部屋を間違えたとかいう話でもなさそうだ。
にしてもなぜ男子寮であるこの部屋に女子がいるのだろう。上杉透が誘った友人だろうか。入学式初日から女子を連れ込んでくるとか、さすがに勘弁してほしいと思わないこともない。
だがリビングには、俺が想像してたものとはやや異なる光景が広がっていたんだ。
「おっ、君が大樹くんか。想像してたよりずっとイケメン君じゃん」
てっきり上杉透とその友人の女子が一緒に勉強していると思っていたんだ。だけどキッチンの前で片付けをしていたのは、声の主である女子生徒の姿一人のみ。細くて真っ白な手には鉛筆などはなく、きらりと輝く包丁がしっかり握りしめられていた。
「ねぇ。ご飯にする? それともお風呂? それとも……」
「ちょっと待て。何なんだこれは!??」
殺意にも覚える漆黒の彼女の瞳。混乱した俺はその奥の方まで吸い込まれてしまいそうな気がした。