しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

エーデルシュティメ 002『洗面所の扉と内鍵の意味』

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「でもまだご飯もできてないし、お風呂も先約がいるからどっちもダメなんだけどね〜」
「いや、そうじゃなくて!」
「ん〜? ひょっとして君、こういうの好きじゃないの? もう少し乗ってきてもらうと助かるんだけど」
「てゆか何をやってみたかったんだよ!? というか、お前は一体誰なんだ?」

 そもそも漫画のようなベタすぎる展開、本当にやるやつがいるとは。

「あ、それそれ。大樹くん、昨日パパから何も聞いてないの?」
「パパ!? 誰だそれ。そもそも俺が昨日会ったのは……」

 引っ越し屋のお兄さんと、寮長のおじさん、そしてこの学校の学園長くらいだ。入寮手続きでバタバタしたせいで、それ以外の人と話した記憶などない。

「だって大樹くん、パパの部屋に呼び出されてたって寮長さんからもそう聞いたけど?」
「パパの部屋ってまさか学園長室のことか? ……てことはお前、まさか?」
「てっきりパパから『よろしく頼む』みたいなこと言われたのかと思ってたんだけどな〜」
「…………」

 確かに言われた。こいつの言ってることは何一つ間違ってない。あろうことか辻褄が全て合ってしまう程度には。しかも俺の想像を遥かに超えすぎた、斜め上の展開に。


「でも君、冗談は通じなそうだけどツッコミは冴えてそうだね。とにかく今日からよろしくねっ!」

 ぱっと煌めくような笑顔の瞳の中に、自分の顔の影が映り込む。そもそも俺は今どんな顔をしているのだろう。状況の整理が追いつかないまま、男子寮という迷宮は真っ白い霧の中へと覆われていく。そこへこいつの強い光の声が反射して、俺の視界は完全に遮られてしまった。

「どういうことだ!? ここ、男子寮だぞ?」
「そうは言っても、わたしも昨日パパに言われてここへ住むことになっただけだし」
「じゃなくて、それでいいのかよ!? 俺は男だ。お前はそれで大丈夫なのかって」
「いいんじゃない? どうせわたしたちの個室にはちゃんと内鍵くらいついてるでしょ」
「そういう問題かよ……」
「だけどもし君が鍵ぶっ壊して襲ってきたら、即刻パパに言いつけて退学処分にしてもらうからねっ!」
「お、おう。……じゃなくて、そんなことするわけね〜だろ!」

 つまり、今日から俺はこの学園長の娘と同居することになった。それで昨日学園長とやらはこの状況に対して『よろしく頼む』と言ったわけか。理解したくはないが、理解はした。だけどそれ以上を理解するには、この話の細い糸切れを一本一本解いたところで無理に決まってる。

 てゆかなんだこの状況? 俺はどうしても自分の家を出たくて必死に勉強して、やっと学生寮での生活を手に入れたはずなんだ。今頃俺と血の繋がりのない父と母、そしてその娘は、俺がいなくなった家で仲睦まじく暮らしているはず。俺にはそんな幸せな家族を邪魔する権利なんて、どこにもなかったから。
 それが何をどう転んだらこんな女子と同居することになるんだ? いや待てよ。これは同居じゃなくて同棲というやつか? ……いや、今はそんな単語の定義なんて本気でどうでもいい。ただ、これが本当に俺がずっと探し求めていた迷路の出口ということなのか。当然納得するまでには時間がかかりそうだ。

「何怒ったような顔してるのよ?」
「別に怒ってなんて……」

 恐らくこいつはここにいるだけ。こいつに怒ったところで何も解決などしない。

「こんな可愛い女の子と一緒に暮らせるなんて、わたしのファンが聞いたら卒倒するお話だと思うのにな」

 まるで俺を試す瞳で、俺の目を真っ直ぐじっと見つめてくる。冗談で『私のファン』などと言ってるのだろうか。ただこいつの瞳にはその言葉通り、テレビの中にいるアイドルのような眩しさがちゃんとあった。

「そもそもお前、自分のことを可愛いとか、自分のファンとか」
「そういえば自己紹介がまだだったよね。どうせあの無愛想なパパからわたしのこと何も聞いてないんでしょ?」
「あ、ああ……」

 その通り過ぎてだから困ってる。理解だけが早いのはこいつの唯一の救いかもしれない。

「わたしの名前は緑川碧海。表向きには学園長の娘ってことになってるけど、それは世を忍ぶ仮の姿で、本当は密かに女子高生声優やってま〜す!」

 どうせならどっちも世を忍んでほしかったという気もしなくもないが。

「…………わかった。とりあえず洗面所行ってくる」

 話がついていけなさすぎるので、顔でも洗ってこよう。もしかしたらまだここは夢の中なのかもしれないし、いや、夢だろう。こんなメルヘンチックなお話に、どうしたらついていけるというのだ。
 右手で自分の頬をぎゅっとつねってみる。痛い。そんなの当たり前だ。ここは夢の中ではないのだから。だけど合点できないことが多すぎて、何から理解していけばいいのかさっぱりわからないんだ。

「あ、ちょっと待って。まだダメだって!!!」
「なんだよ。まだなにかあるのかよ?」
「そうじゃなくて、今は洗面所に絶対に入っちゃダメだよ!!」
「わけわかんね〜よ。とりあえず一人にさせてくれ。申し訳ないが話の整理がまだできてないんだ」
「そういう話じゃないんだってば〜!!!」

 緑川と名乗る女子の悲鳴のような声が耳元を襲う。だけど何かが間違ってるとしか思えなくて、逃げるようにリビングの戸を閉めた。逃げるように……? そもそも何から逃げてるというのだろう。こんなの状況理解できなさすぎて、頭がくらくらするくらいなのに。

 そうだ。もう一人のルームメイト、上杉透はこの状況をちゃんと理解できてるのか? あいつだって男だし、男子二人、女子一人みたいな生活、間違えなく困惑するに決まってる。むしろ女子である緑川の方がよくそんな状況を許せたなと思うくらいだ。本来なら俺以上に困惑しなくちゃおかしいはずで、だけどパパに言われたからとか、それはそれで理解早すぎるだろって。

 ……上杉透。その名前と同時に、今朝拓海が妙なことを言っていたことを思い出す。

『風呂場に入る時だけは絶対に慎重に入るんだぞ』

 風呂場というのはつまり洗面所の入口ってことで、風呂場と洗面所の扉はどちらも共通のもの。拓海のやつ、一体何の話をしていたのだろう……とその時は思った。だが今はその時と状況が違いすぎる。この部屋に緑川がいるという事実が、俺をさらに嫌な予感へさせてくれた。

 残念なことに、そこから一つの結論に辿り着けたのは、俺が洗面所の扉を開けた後だったんだ。

 その光景は、まるで答え合わせでもするかのような状況。湯けむりの中から真っ白い素肌が俺の視界の前に現れ、その純白さは到底男のものとは思えない。俺とそいつは互いにぽかんと顔を合わせたまま、まず俺が視線を下にずらす。するとそいつは反射神経で慌てて自分の胸をバスタオルで隠した。ピンク色のバスタオルに覆われた細い身体の凹凸には、男には存在しない胸の山なりが明らかに存在していたんだ。

「…………」
「…………きゃ〜!!!!!!」

 俺は無言のまま、慌ててその戸を閉める。何もかもが後の祭りだったけど、正直それ以上の何かがまるで見当たらない。ここまでくると本気で夢であってほしい。そう願ってやまないくらいだ。

 てゆかここ洗面所だよな。それこそちゃんと内鍵が存在しなかったのか?

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