しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

エーデルシュティメ 004『小さな来訪者と偽りの世界』

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 幸いなことに、わたしがシャワーを浴び終わるまで、脱衣所の内鍵はずっとかかったままだった。透と大樹くんはリビングにいて、ネットで調べごとをしていたから当然のこと。恐らくわたしの裸には一切興味なかったのだろう。二人は互いに画面と向き合ったままで、だけど二人がなぜか仲良さそうに見えてしまう。わたしは小さく息をついてそのまま自分の部屋に戻ると、ベッドへばたんとうつ伏せになった。

 緊張しているのだろうか。……何に? 得体の知れない疲れだけが、身体に酷く残ってしまっている。
 今度こそわたしは大きく溜息をついた。

 だけどそんな暇さえないほど、また新たな不安の音に襲われたのは次の瞬間だったんだ。

「誰!?」

 誰もいないはずの静かな部屋に、何か叩くような鈍い音が響く。恐らくこのベッドの下だ。

 ゴキブリ? それにしては音が大きすぎる。
 ネズミだろうか? 大きさとしてはその方が辻褄が合うだろう。
 もっともどちらであっても決して嬉しいものではない。

 わたしは恐る恐る身体の体重をベッドに預けたまま、首を伸ばし、頭を逆さにしてベッドの下を覗いてみる。長く伸びた髪が床に垂れたせいで、冷たい触感が心臓目掛けて突進してきた。ひゃっと瞬間的におのろいてしまう。気を取り直してもう一度、薄暗くなったその場所をゆっくり覗いてみた。

 蛍光灯の灯りが届くのはベッドの下の三分の一程度まで。それから向こう側は完全に真っ暗闇の世界だ。


「ねぇ。そこに何かいるの?」

 こんな場所に何かいるとしたら、間違えなく人間ではない何かだろう。どんなに小さな子供でも、こんな場所に隠れるのは到底無理だ。人間が使う言葉で尋ねたところで、返事なんてあるはずがない。

 静寂に包まれたのはわずか三秒程度だったと思う。間もなくそいつがひょっこり顔を出してきた。
 色はやや地味めの緑色で、大きさはようやく両手で掴めそうな程度の小振りなそれ。ぬいぐるみ? さらに薄気味の悪いことに、そいつはこちらの方へと歩いてきた。ホラーかよ!?
 ようやく姿をはっきり現した真ん丸の愛くるしい瞳が、僅かにわたしを安堵感で包み込んできた。

「なんだ。もう見つかっちゃったんだ」

 深い海と広い空の境界線を彷彿させる美しい声。か細いながらも温かい愛嬌さえ多分に含まれている。

「君、喋れるの?」
「喋れるに決まってるじゃん! だってボク、カメレオンだよ?」
「…………」

 そんなこと知るか。君はどう見たってぬいぐるみだよね!?
 当然ながら口は動いていないし、それ以前にぬいぐるみだろうとカメレオンであろうと、人間の日本語を喋るというのがあまりにも間違いだらけだ。

「あ、そうそう。さっきイタズラしてお風呂場の鍵を開けたのもボクだから」
「ちょっ!!!」

 そしてあまりに唐突な自白に、わたしの次の言葉さえ見失わせてきた。
 そいつは手足をバタバタさせて、さらにこちらへ向かってくる。なるほど。鍵を開けたというのもそれなりの説得感がありそうだ。……いや、やっぱしその短い手足で風呂場の鍵を開けるとか、絶対に無理だよ!

 カメレオンくんはわたしの足元まで辿り着くとぴょんとジャンプして、わたしの頭の上へと飛び乗った。そのまま首筋、背中をつたい、やがて膝元で猫のように丸くなる。見た目以上に運動神経抜群のようだけど、何の躊躇いもなくわたしの身体を踏み台にしないでほしいものだ。

「この身体、あまり派手に動かすと、すぐにバッテリー切れしちゃうんだよね」
「そ、そうなんだ……」

 妙にリアリティーのある単語まで飛び出してきたが、もはや脱力感しか湧いてこない。

「よくできた身体でしょ? ボクもこの身体、気に入ってるんだよ」
「それ以前にいろいろ説明してもらわないと、わたしも頭がついてこれないんだけどな」
「ちなみにモーターとか探しても無駄だよ。全部フェルトの中に隠れてるもん。何かを見つけられるとしたら、スピーカーくらいなもんかな」

 残念なことにわたしが聞きたいのはそこではない。とはいえ、確かによくできたロボットだ。ここは入学試験で特に優秀だった生徒しか入寮を許されない男子寮だし、ともすれば恐らく寮生の誰かの研究成果物が、わたしの寝室に紛れ込んでしまったのだろう。

 おやっ。ふと視線を落とすと、口元あたりにカメレオンくんの声の主を見つけ出すことができた。

「スピーカーみーっけ!」

 それはとても小さなスピーカーだった。くすぐるように、軽く撫でてあげる。カメレオンくんは特に嫌がる素振りさえ見せず、むしろ喜んでいるかのよう。もっとも顔の表情は何も変わらなないのだけどね。

「それにしても君の声、本当に綺麗な声をしてるよね?」
「うん。ボクのご主人様は声に対して特に注力してたみたい」
「ご主人様?」
「そう。この身体を作ってくれた人。それがボクのご主人様だよ」
「きっとその人、素敵な心の持ち主さんなのかもしれないね」

 じゃないとこんな声、作れないと思う。音声合成ってやつ? ただ人の声を単純に学習させただけではこうはならないだろう。無数の感情パターンをエフェクトとして学習させ、複雑なネットワークモデルを経由して、ようやく出力されるもの。想像するだけで気が遠くなる演算処理で、少しでも手抜きすれば、ただの機械音のようなロボット声になってたはずだ。

「でもボクのこの声は、今の技術では絶対に発声できないと思うよ」
「それってどういうこと?」

 だけど今度のカメレオンくんは、不敵で不気味な笑い声を発生させる。

「碧海ちゃん。幽霊って嫌いでしょ?」
「……えっ?」
「だってさっき明らかにボクを威嚇する声で『誰!?』って叫んでたし、お兄ちゃんやご主人様が気に留めてなかった鍵のことも、碧海ちゃんだけはしっかり気にしてたしね」
「お兄ちゃん? ご主人様??」

 しかも急に情報量が増えた。このカメレオン、人を驚かす才能についても天才的らしい。

「言ったでしょ? 鍵を開けたのはボクだって。でもボクのこの手で本当にあの鍵を開けられると思う?」

 カメレオンくんの前足はぴらっぴらのフェルトでできている。その足でわたしの膝を叩いてきた。当然だけど、痛くも痒くもない。触れたという不気味な感触だけが、わたしの脳裏を襲ってくる。

「ねぇ碧海ちゃん。いつまでもそんなに強がってたら、いつか大切なものまで見落としちゃうよ?」

 大きく無表情の真ん丸の瞳は、わたしに何かを訴えかけてきた。
 曖昧で真っ白な嘘だらけの世界へと、わたしを誘ってくるんだ。

 ……君は、一体何者なの!?

「あ、ここににいたんだ。探したんだからね」
「お帰りなさいませ。ご主人様!」

 そこへ飛び込んできた声の主は上杉さんだった。カメレオンくんは声に反応するようにぴょんぴょん飛び跳ねて、『ご主人様』と呼ぶ上杉さんの方へと駆け寄っていく。

「お帰りなさいませじゃないでしょ。僕たちの部屋はここじゃなくてあっちなんだから」
「ひょっとして透ちゃん、そういう遊びがあること知らないの? あ、碧海ちゃん。また来るね!」

 『遊び』ってなんのことだ? その疑問はさておかれ、まず上杉さんがわたしに軽く会釈すると、カメレオンくんもご主人様の背後を飄々とついていく。つまりカメレオンくんの創造主は上杉さんってことらしい。

 ……うん。きっとそのはず、なんだけどさ。

 『幽霊』、『お兄ちゃん』、『ご主人様』……?

 上杉さんは本当に一体、何を作ったというのだろう??

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