しかつきかふぇ

ちょっとした休憩時間に

流れ降る星の雨音 〜燐〜 006『青い海の底に眠る猫の涙』

 ここは八景島と呼ばれるだだっ広い公園のような場所。夜に予約したレストランからも近く……はない。
 何か特別なものがあるかと聞かれると、水族館とジェットコースターくらいなものか。だけどお金がないなど言われてしまうと、他に何をすればいいのだろうと思わないことない。

 月香は『一度ここに来てみたかった』って言うんだ。海が見たかったとか、そういう理由だろうか。でもそれなら山下公園でもよかったのでは。そういえば月香と初めて出逢ったのもその付近だった気がする。

「なぁ月香。あの日はなんで横浜にいたんだ?」
「え、いつのこと?」

 青い空と青い海を背景に、月香は僕の声に振り返る。一瞬にして背景と同化してしまい、月香の姿は一枚の美しい絵として完成された。やはり月香にはぱっと人を惹き込むような存在感がある。

「ほら。僕と月香が出逢った初めての日のこと」
「それって……入学式の日のこと? そんな日に横浜なんて行ったかなぁ〜?」
「入学式!?」

 だけど素っ頓狂なことを言うもんだから、僕は思わず大声を上げてしまう。月香はそもそも転校生だし、同じ日に同じ場所で入学式を迎えた記憶なんて、僕には当然なかったからだ。

「ああ、そっか。リッキーが私にセクハラした日のことか!」
「そ、そうかもしれないけど、その表現はどうにかならないのか?」
「だって事実じゃん」

 そうくすくすと笑い始めた。確かにそれが出逢いとは、最悪の記憶だな。

「あの日も本当は海まで行く予定だったんだよね」
「海まで……?」
「そう。海の中まで」

 瞳の色が深く、海の底へと沈んでいく。まるで海の中に見たことのない獲物があって、それを狙う狩人の顔に近いかもしれない。手を伸ばせば届かないものなんて何もないと思うのに、だけどそれでも手を伸ばそうとするのが月香というやつだろう。

「だけどね、途中でめんどくさくなって海まで行くのは諦めたんだ」
「途中で、諦めたの?」
「……で、気がついたら街中でリッキーにセクハラされてたと。それってなんか私らしくないよね?」
「ごめん今の話の流れって結局僕の扱いどういう立ち位置なのか全然わからなかったんだけど!」

 彼女は何もかもを笑顔で覆い隠し、それはいつもの月香に戻ってきたことを意味している。

「あ〜あ。こんな日がずっと続けばいいのにな〜」

 まるで諦めることが必然で、だけどその顔に後悔とかはないようにも思えたんだ。


 月香の身長はちょうど僕と同じくらい。僕だって男子の中で背が低い方ではない。至って普通で、ちょうど平均くらいだと思う。つまりは月香が女子としては背が高いほうなんだ。そんな女子と山下公園で歩いていると、わずかに不釣り合いにも思えてくる。もう少しだけ月香の身長が低いか、僕の身長が高い方が、本当の高校生カップルっぽく見えるんだろうけどな。

「でもこうして歩いていると、本当に恋人同士みたいだよね」
「そ、そうかな……?」

 だけどはっきりそう言われて、うんと答えられるほどに僕の心臓は強くはない。てゆか無理だろ。

「いやでもさすがにそれはないかな」
「ないのか……?」
「うん。だって私達、本当に恋人同士だし」
「いやそっちの方が余程ないと思うんだけどどうかな!??」

 すると月香の右手はノンルックで僕の左手を探し出すと、月香の右手指を僕の左手指に絡ませてきやがった。つまりこれって、恋人繋ぎってやつか!??

「だってあの頃の私はこんな場所を男の子と一緒に歩くなんて、想像もできなかったから」
「あの頃って、僕が月香と出逢う前ってこと?」
「うんそう。リッキーがセクハラしてなかったら、こんな楽しい日はなかったってこと」
「ちょっ、言い方!!」

 周囲の人にもその声が聞こえてしまったのか、複数の冷たい視線がひゅんと飛んでくる。痛い。てゆかさっきからセクハラセクハラ言うけど、あの日は気づいたら月香が飛んできて、僕が慌ててキャッチしただけだ。冤罪と呼ぶにも程があるだろ。

「だってさ、私がこんなにも悪ふざけ言っても、冷たい目で見られるのはリッキーだけだもんね」
「わかってるならやめてくれ。そもそも自覚あったのかよ!?」
「リッキーとだったら私も普通に男の子とデートができるんだなって」

 それは違うだろ。絶対に僕がどうとか関係ある話じゃない。

「月香だったら、僕じゃなくてもいくらでも男子とデートくらいできるんじゃないのか?」

 だってこの顔だぞ? バイトで『虹色ゴシップ』専属プロモーション補佐係なんてやってたら、尚更それが贔屓目でないことを確信した。現役アイドルのあの三人より、ずっと人を惹きつける力強さがある。そんなの、僕が月香とは不釣り合いだってことに決まってるじゃないか。

「できっこないよ。だって私は、普通じゃなかったから」

 だけど月香は温かい顔を浮かべて、どうしてもそれを否定しがるんだ。さっきから僕の知らない月香が、ちらりと見え隠れしているようにも思えてくる。そもそもどうして彼女は自分が『普通じゃない』って言い切るのだろう。手が届きそうでどうにも届かなくて、むず痒い。
 月香の小さな手なら、今だって僕がしっかり握ってるはずじゃないか。

「だけどリッキーは、本当は私以外の人が好きなんでしょ?」

 前にも似たようなことを聞かれたような、唐突に冷たい質問が僕を襲ってくる。

「それって……顔も思い出せない、忘れられない人がいるって話のことか?」
「うん、そう。忘れられない人って言うからには、絶対異性の人だよね?」

 普通とか絶対とか、そんな陳腐で曖昧な言葉は、どこかに消えてしまえばいいのに。
 ただ僕は何かを言葉で返そうにも、それが見つけられなかったんだ。

「もしリッキーが永遠にその彼女を忘れられないのだとしたら、私が割って入る余地なんてないよね」
「そんなことは……」

 ……ない、と言い切れるだろうか。
 つまり永遠に思い出せなかったら、僕は新しい恋なんてできないってことなのか。

「私はね、だけどリッキーは彼女を思い出すことなんて、永遠にできないと思うんだよな」
「えっ……?」

 繰り返される永遠という言葉。不自然なほど曖昧で、不気味なほどに不確定要素が強い。

「だってそうでしょ? もしその人が本当に存在すべき人だったら、忘れる必要なくないかな?」

 でも曖昧な言葉だからこそ、その言葉は重く僕の身体にのしかかってくる。

「つまり彼女がこの世からいなくなったのは必然だったってことだよね?」
「違う……」
「あるいは彼女は、元から存在なんてしていなかったってことじゃないかな?」
「違う! 絶対にそれだけは違う!!」

 曖昧だからこそ、僕も用いてしまう。用いざるを得なくなる。
 彼女がいなくなったとか、いなかったとか、絶対に信じたくはなかったから。

「どうして? だったら何故彼女はわざわざリッキーから消える必要があるの?」
「それは……」

 月香は小さくにやっと笑う。怖い。寒気がする。

「やっぱりリッキーも答えられないんだ?」

 まるで何もかもを見透かしたかのようなその顔は、この世のものとも思えなかった。今にも青い海の底へ溶けてしまいそうだ。すぐ隣りにいるはずの月香が、徐々に離れ、やがて消滅してしまうんじゃないかと。

「そういうことだよ。だから彼女は、この世から消えるしかなかったの」
「っ…………」

 だけどその瞬間、月香は完全に油断したんだ。
 ……違う。そういうことじゃない。でもそんなのって、本当にあり得るのか?
 冷たく温かいその顔は、敢えて油断したのか、それとも意図的なのか。僕の頭を撃ち抜く破壊力を持っていて、思い出せなかったはずのあの顔が、今鮮明に蘇ってくる。元々何を考えているのかわからない月香ではあるけど、だけど全部ひっくるめてそれが月香なんだって、今はっきりと僕の目の前に現れる。

 ああ、やっと会えたよ……。ようやく、彼女を取り戻せたんだ。

「もし彼女が永遠に消えてしまったとしても、それは新しい時間の始まりじゃないのか?」

 僕がそう答えると、月香はぽかんとした顔で僕を見つめ返してくる。これが始まりで、これが終わりなのかもしれない。今彼女とつながってる僕の左手が急にきゅっと力が加わるのを感じた。僕はその手を今度こそ絶対に逃さないよう、彼女の右手をもう一度しっかり握り返したんだ。

「彼女は本当に僕の前から消えてしまったんだと思う。それこそ、永遠にね」
「…………」

 彼女の右手が、優しくなったのを感じる。力はすっかり抜けきっていて、怖さはもうない。

「でもだから僕は月香に出逢えたんじゃないか。彼女ではなく、今ここにいる月香に」

 気がつくと彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。僕の言葉の端っこにある意味を悟ったのだろう。
 でも本当にそんなことって、あり得るはずがないんだ。だって彼女は完全無欠で、この世の誰からも愛されるべきはずの人なのだから。そんな彼女がこんなにも簡単に泣いてしまうなんて……。

 彼女の嘘の涙は、いつも真実を隠し、多くの人を虜にして、多くの人を騙す。
 彼女の無敵の顔は、いつだって笑っていて、いつだって孤独で、教室の隅で佇んでいる。
 だから彼女は全てを、この世から完全に消滅してしまったんだ。

「ねぇ、理月くん……」

 月香は、僕を名前を呼んだんだ。彼女が月香になって、僕を名前で呼んだのは初めてじゃないか。
 弱々しそうな声で、本当にごく普通の女子みたいな声で、小さなたった一人の女の子の声で。

「……この手を永遠に離さないで」

 でも、そんなのもう今更で、手遅れのように思うんだ。

「私と、結婚してくれませんか」

 彼女の左手はまたぎゅっと、僕の右手を力強く握りしめた。こんなことって……僕の胸の内側に多くのものがこみ上げてきて、また返す波のようにすっと静まり返っていく。吐き出したい言葉は山ほどあるはずなのに、どうしてもそれを口に出すことはできなかった。

 なぜなら僕は彼女ではなく月香を、絶対に許すことはできなかったから。