彼女の名前は、黒峰洋花。中学の頃のクラスメイトで、いつも教室の窓際の席に座っていた。
もっとも、彼女の姿がそこにあったことはほとんどなかった。その席に彼女がいたかと思えば、気づくとそこからいなくなっている。まるで幽霊のような存在にも思えたほどだ。
なぜなら彼女は『百年に一度の天才女優』。そう呼ばれる程に、世間から必要とされる人だったから。
ある有名な映画監督は雑誌の中で、彼女をこう評していた。『一瞬にして作品の背景や現場の空気を全て読み、ここに必要な演技を完璧にこなす』と。監督から演技指示を出すことはほとんどなく、監督の顔色、共演者の息遣いから、なすべく演技を全て計算して導き出すのだと言う。この記事を本屋で読んだ時、そんな大人でも難しそうなことをどうして僕と同じ中学生ができるんだ?と疑問を抱かざるを得なかった。
「ねぇどうしたのよ。さっきからむすっとしちゃってさ」
「…………」
だからなのか。彼女の代わりに現れた月香のことを、僕はどうしても許せない。
「ねぇ。美味しいよねこの料理。リッキーもちゃんと食べてる? あ、ほら。口元に何かついてるよ」
「あ、ああ……」
味がわからないわけない。先日陽川と食べたパスタだって、もちろん美味しいと感じていた。今僕の目の前にあるのはビーフシチューだけど、こんな高級レストランの料理なんて、美味しくないわけがないんだ。
でも、あの日のパスタより薄味に思えてしまう。不思議なほど、あまり味を感じない。
空気とか心の中とか、見えないもの全てを読んでしまう奇想天外の天才。そのはずの彼女は何もなかったように、僕をリッキーと呼んでくる。僕を下の名前で呼んだのは、あの時の一回だけ。恐らくは何かを一瞬で悟り、何かを狂わせ、月香は思うがままに振る舞ってくるのだろう。
僕はそんな月香を、どうしても許せなくて……。
だってそんなの、さすがにあんまりだろ?
「なぁ、月香は……」
「ねぇリッキー。ひょっとして、怒ってる?」
月香は薄ら笑みを零して、下からそう尋ねてくる。全て演技と思えるほどに、本当に何もない振りをして。
だけど月香もあれをなかったことにするのは無理だって、当然自分でもわかってるのだろう。僕だって役者じゃない。僕の胸の内側がバレないようにするのは、絶対無理な話だ。
「別に怒ってなんて……」
「嘘だよ。さっきから私のこと、エスパーでも見てるような顔してるもん」
言い得て妙だ。事実を知ってしまった僕に、そう見えて当然なのだから。
「仮に僕が怒っていたとして、それがなんだって言うんだ?」
「そうだね。何もないかな。でも私が隠し事してたことも、リッキーには何も関係ないはずだよね?」
「隠していた? それは月香が、黒峰洋花だってことをか?」
答え合わせ。月香は小さくくすっと笑う。『Yes』と答えることすら、彼女には無価値であるらしい。
「そもそもどうして……。黒峰洋花は一体どこへ消えたっていうんだ?」
「つまりリッキーは私と黒峰洋花が別人だと思ってるんだ?」
別人……? 果たしてそうなのだろうか。ただそんな疑問すら無価値に思えてくる。
「そういうことだよね。今リッキーの目の前に広がってる世界が、全て現実だってこと」
ありえないと思える現実。時間の狭間に取り残されたかのような、そんな感覚。
「黒峰洋花という人物は死んだんだよ。その代わりに、私がここにいる」
「死んだ……って」
だけど止まってしまった時間の中から、僕は脱出できないでいた。そもそも誰が死んだというのだ?
「だってそうでしょ。この世界では誰も黒峰洋花という人を知らない。隠す必要さえないほど、誰もそのことに気づかない。すれ違うと誰もが振り返ってたはずの人が、この世界にはどこにもいないんだよ?」
「だったら君は……」
……今僕の目の前にいる月香という人物は、一体誰だというのだ?
「だったらそれでいいんじゃないかな。黒峰洋花は死んだ。跡形もなく、この世に存在しない」
「そうじゃなくて……月香はそれでいいのか?」
そもそもこんな世界、やはりおかしいんじゃないか。彼女が死んだと言うなら、記憶の端っこに彼女がいたっていいはずだ。なのにどうして黒峰洋花は記憶の中から消えてしまったのか。
僕はどうして、彼女を忘れていたんだ……?
「いいも何も、黒峰洋花を殺したのは、私自身だもん」
「は……?」
今、なんて言った?
「彼女は消えるべきして消えたの。私があの世界から葬り去ったから」
「それって……自分で黒峰洋花を殺しておいて、自分は津山月香だって、そう言いたいのかよ?」
「うんそうだよ。だって私は私だし、私は津山月香だもん!」
そんなこと、ありえっこない。僕の知ってる黒峰洋花は、誰にも絶対に手が届かない天才女優で、いつだって完璧を追い続ける僕のクラスメイトだ。いつも笑って、いつだって完全無敵で。
だけど今ここにいる月香と彼女は同一人物だって……でも僕は、百パーセント信じられると思う。
「……普通の女の子と一緒に遊んで、普通の男の子に恋をしてみて、テストの点数だって普通でよくて……あ、でも結局テストは学年一位を取っちゃったよね。やっぱし私は私なのかなぁ……」
だけどそれが月香の本当の願いで、彼女の願いだったもの。彼女が月香となって叶えてみせたもの。
それはそれでいいことのはずだ。一人の少女が叶えた夢の世界に、誰がケチをつけていいものか。それを否定するのは明らかにナンセンスで、それ以上の価値は何もないというのに。
でも僕にはそれが許せなかった。僕が好きだったのは月香ではなく、黒峰洋花という存在のはずだから。
ただ、うまく言葉として処理できないけど、どこかそれが邪な何かであることに思えてくる。
つまり僕は、彼女の幸せを願うことができなかったということなのか。
「だったらどうして月香は黒峰洋花を殺す必要があったんだ?」
「そんなの決まってるじゃん。私は彼女が嫌いだったから」
「どうして……」
だけどその理由は聞くまでもなく、僕も気づいていたんだ。
「当たり前でしょ。何もかもが嫌いだったの。鏡に映る姿も、耳から入ってくる声も、皮膚から感じる体温も。何もかも消えてなくなればいいと思った。こんなに醜い自分がどうても許せなかったから。それなら彼女の時間そのものを止めてしまえばいいんだって」
「そんなことあるかよ! 自分で自分の時間を止めて、何がいいって言うんだ!!」
気がつくと僕も吠えている。納得行かなくてやるせない感情が徐々に表に出てきてしまう。
「なのになんで! なんで私は生きてるの!! 私はあの時死ぬはずだったのに、なんでよ!!!」
「そんなの僕が望まなかったからだよ! 僕だけじゃない。誰もそんなの望んでなかったんじゃないか?」
「ずるいよそんなの! 私は誰? 誰のために生きてるの? 私はいつまで生き続けなきゃいけないの?」
「いい加減にしろよ!!!」
だってそうだろ? 誰からも愛されて、あの世界の憧れの象徴だった。それなのにどうして消えなきゃいけないんだ? 人気とか才能とか何もかも全てを持ってる人間が自分の意志で消える理由なんて、この世にあってたまるものか。
「だっておかしいだろ……本来いるべき人がここにいなくて……僕はその人を守ることもできなくて……」
だけど事実に気づいてしまったのは、この瞬間だったんだ。これが僕の邪なものである理由に。
言葉だけでなく顔にも溢れ出てきて、自分の醜さを呪い殺してやりたい気持ちになる。
自分の時間を止めてしまいたいと叫んだ、ついさっきの月香と似た感情のような気がして。
でももう手遅れだった。自分をエスパーだと名乗った月香は、当然僕を見逃してはくれない。
「……そっか。だからリッキーは私を許してくれないんだね」
そう。僕は月香を許せない。その理由は、彼女が望んでるわけでもない、全く別のもの。
「だけどそれって、完全にリッキーのエゴだよね?」
「…………」
月香を許せない理由は、月香にあるわけではなく、僕自身にあったんだ。
身震いがする。狂気の感情が表にやってきて、僕は僕をさらに許せなくなる。
「だとしたらリッキーが私とわかりあえることなんて、絶対にありえないよね」
怒りの矛先が完全に自分へ向いてしまった時、僕は月香という存在を視界から消してしまった。まるで黒峰洋花の魔力がこの世界に残されてるかのような、呪縛とも思える冷たい感触が僕の全身を襲ってくる。
この手を離さないでと泣き叫んだ月香の声には、もう体温さえも残っていない。
僕はただただ彼女を守れなかったというエゴに、呪いをかけられてしまったのだと。