そもそも僕はどうして横浜にいたのだろう?
帰りの東海道線でなんとか思い出そうと試みるも、どうしても思い出せなかったんだ。何かがふわっと浮かんできて、またすぐにすっと消える感じ。それが二十分くらい繰り返されたところで、気づくと電車は自宅の最寄り駅である藤沢駅へと到着していた。
「ねぇ見て。この服かわいいでしょ?」
「…………」
そしてどういうわけか彼女の生活用品一式も、全て自宅に届いていた。にしても彼女の服がダンボール一箱分に詰められた状況はさすがに少なすぎるだろとも思ったが、『服なんて必要な分で十分でしょ』などと返ってくる始末で、正直多くの意味でわけがわからない。
「ああ。ここから下は下着みたいだからリッキーは絶対覗いちゃダメ!!」
「そう思うんなら最初からここで開けるなよ」
彼女は慌てて両手を広げ、身体全体でダンボール箱に蓋をする。そもそも僕の部屋でそんな箱の開封の儀なんてしてほしくないってのが本当の本音ってやつだけど。
「そもそも、ツ……月香の部屋はさっき母さんがあっちだって教えてくれただろ」
「いいじゃん。だって、初めて来る男子の家に女子一人とかめっちゃ寂しいと思わない?」
「だからってわざわざ僕の部屋で自分の服の整理なんてしなくてもいいだろ」
「だってこの箱にどんな服が入ってるかなんて知らないし、だったら二人で開けた方が楽しいでしょ?」
「って、これお前が自分で詰めた箱じゃないのかよ!?」
「ん〜……、複雑に言うと私もよくわからないけど、有り体に言うとそんな感じ?」
「それ複雑でも有り体でもどっちでもなくないか!!?」
にしても相変わらず話が噛み合わない。彼女は自分のこと『津山じゃなくて月香って呼んで』の一点張りで、女子の下の名前を呼ぶ経験なんてもちろんなかった僕には、どうにもやりにくい。そのくせ彼女は『月香』と呼ばれることに大変満足しているようで、こっちの気持ちなんて完全にお構いなしのようだ。
そのくせ話の内容はどうにもちぐはぐで、確かに彼女は僕の家に住むことにはなっていた。どうやら母さんが知人から少しの間だけ世話してほしいと紹介されたのが彼女だったらしく、彼女の荷物も僕の家の空いてた部屋へ無造作に積まれていたんだ。が、話はそれだけで、彼女の方はその辺りまるで聞いてなかったらしく、挙句に自分で詰めたはずの箱に何が入っているのかなど、全く記憶にないようなのだ。
「ねぇ。そんなことよりさ、リッキーって好きな人いるの?」
そんな迷い猫のような彼女から唐突にこんなこと聞かれたら、僕は思わず吹き出すしかなかったわけで。
「な、なんだよ突然!」
「だって、もしリッキーに好きな人がいるのに私みたいなお邪魔虫が同棲してたら、私がリッキーの大切な恋路を邪魔しちゃうことになるわけでしょ?」
それは一理ある。ましてやこんな可愛い女子がうちにいると知られたら……。いや待てよ。そもそも明日から僕と彼女はクラスメイトってことになってるらしく、それはそれで大丈夫なのか?
「いないよそんなの」
「そうなんだー。じゃあ、私が彼女になってあげよっか?」
「は!???」
突然、誰が誰の彼女になるというのだ!?
「だってその方が都合がいいでしょ。私たち明日から同じ学校に通うんだよ? 中途半端に尾ひれついた噂されるより、最初から彼氏彼女でいた方が嘘がなくてよくない?」
「いやいやそれは大嘘だろ!! じゃなくて月香はそれでいいのかよ!?」
今彼女は『嘘がなくて』と言った。それはつまり、フリではなくってことか?
「別に私は構わないよ」
「別に……って」
「あ。それともやっぱしリッキーには好きな人がいるんだ? だから私じゃ不満ってことでしょ」
彼女はぷんぷんした顔を僕にぶつけてくる。本当に理不尽極まりない。
「そうじゃなくて……」
そもそも好きな人がいるとかこれまで考えたことすらない。だけど……。
「今は、僕自身の気持ちを裏切ってしまうような気がして、好きな人とか考えられないんだよ」
「ふーん……」
僕がそう答えると、何とも言えない真っ白な顔で彼女は僕の顔色をまじまじと伺ってくる。まるで僕が何か悪いことでもしたかのように、罪意識を植え付けさせるには十分すぎるほどのそれだった。だから僕も正直に答えるしか選択肢がなくなったんだ。
「顔も声も名前も、何も思い出せないんだけど、どうしても気になる人がいるんだ」
「つまりリッキーは、その人のことが好きってこと?」
違う。そもそもその人の性別さえまともに思い出せないんだから。
「その人は実はただの男友達だったかもしれないし、月香の言うように本当に好きな人だったのかもしれない。だけど今の僕には、その人の顔が存在しないんだ。目を瞑れば思い出せたり手が届きそうな気がするのに、どうしてもフラッシュバックのように白くぼやけてしまって」
「…………」
君は一体何の話をしているの? 彼女は無言でそう呟いている。
「ただ一つだけはっきりしていることは、その人が笑いながら泣いてたってことだけで」
だけど僕にもそれがどういう状況なのか全くわからないんだ。
「何に笑ってるのかも、何に怒ってるのかも、何に泣いてるのかも、それ以上の顔が出てこなくて。もしかしたらこれはただの恐怖かもしれない。でもなぜか美しく思えたんだ。それ自体が僕の傲慢かエゴかもしれないけど、だけどどうしてか愛おしい顔にも思えたから」
わけがわからない。話を紡いでいる僕にだってわからない話なのだから。
「だからこう思うんだ。手も届かなければ顔さえ思い出せないその人だけど、今もこの時間をどこかで生きていて、素直に笑ってくれていたら、それでいいかなって」
すると彼女はけらけらと笑い始めた。まるで僕の願いが叶ったというより、僕の頭のおかしな話を馬鹿にするかのように。それはそれで少し癪ではあるけど。
「つまりリッキーはその人に振られたんだ?」
「いやいや今の話ってそういう話ではなかったよね!??」
なるほどそういう解釈もあるのか。納得したくはないが、どこか遠くない気もしないことなかった。
「でもさ。リッキーがどれだけその人のことを想っていても、何も思い出せないんだったらその人は死んだも当然じゃないかな」
「えっ……?」
唐突に出てきた『死』という言葉の前に、僕の身体は思わず凍りついてしまう。彼女の口からあまりにも自然に出てきたその言葉は、恐怖を覚える時間さえまともに与えてくれなかった。
「ほら。シュレディンガーの猫だっけ? 人ってさ、見たくないものには蓋をしたがるじゃん。だったら箱の中の猫は死んだも当然なんだよ。箱の中でどれだけにゃーにゃー泣いていようとさ、そんなの蓋をした人にはわかるわけもないもん。それならそのままでもいいんじゃない? だって箱の中の猫も、実はようやく我儘な飼い主から開放されて、喜んでるだけかもしれないじゃん」
箱の中の猫の鳴き声は、泣いているのだろうか。それとも笑っているのだろうか?
「だからリッキーは過去より、今のこの時間を大事にするべきなんだよ!」
「…………」
「つまりリッキーはやっぱし私の彼氏ってことなんだよね!!」
「…………いや。やっぱしそうはならないだろ」
彼女はそんなことを宣いながら自分で引っ張り出した服を一枚一枚畳んでいき、もう一度元のダンボール箱へ仕舞っていく。そもそもの話、ひらひらと花を舞い散らす女子がこんな殺風景な男子の部屋で、一体何をしてるのだろうと。
……僕の彼女だって? 何かの間違えであってほしいくらいだ。
「むしろちゃんとした彼氏がいるのは月香の方なんじゃないのか。お邪魔虫なのは僕の方で」
「私には好きな人なんていないよ。だからこれからリッキーを好きになるの」
「…………」
この絶対に噛み合いそうもない会話は、結局全ての服が箱の中へ返っていくまで繰り返された。
その箱の中身が今どんな状況になってるかなんて、僕は想像さえしたくないわけだけど。