五月の夜。生温かい浜風が届く、横浜の繁華街の交差点。
私は深く帽子をかぶり、周囲の視線をもう一度確認した。
いつもは学校で着ているだけの制服。これは正直、邪魔なものでしかない。
私が普段どの学校へ通っているのか、正体を明かす記号でしかないもの。別にそんなのどうでもいいはずなのに、大した意味もなく、全てを暴露しようと追いかてくる厄介な存在。途方に暮れる私を嘲笑するだけの愚かな存在。
そして私という存在は、無価値な周囲の視線に一喜一憂するだけ。
何もかもが邪魔で、何もかもが鬱陶しくて、何もかもこの世から消えてほしくて。
私は海に向かっていた。恐らくこの時間は真っ暗闇に包まれるだけで、何も見えはしないだろう。
でも今の私にはそれがお似合いだ。いつも浴びているスポットライトは異様なほどに眩しすぎて、私はいつか浄化されるだろうと思っていた。……ばっかじゃないの? みんなが思ってるほど、私は素敵な人間でもなんでもない。愚かで醜くて、ここにいてもただ汚らわしいだけの人間だ。
だけど誰もそうは思ってないらしい。知れば知るほど馬鹿馬鹿しくなってくる。
(あ〜あ。海まで行くの、めんどくさくなってきたなぁ〜)
昨日まで続いていた連続ドラマの撮影もようやく終わり、今日は久しぶりに学校へ行った。
別に年中休んでいるわけではないけど、出席日数は他の人より間違えなく少ないだろう。それでも先日のテストはどういうわけか学年で一番の点数だったそうだ。みんな驚きの顔で私を見てきたが、むしろなぜ私より学校に来ているはずなのに、私より点数が低いのだろうって、そっちの方が驚きだったりする。この感情、恐らくみんなの反感しか買わないのだろうけど、実際そうなのだから本当にどうしようもない。
私は海まで行くのを諦めた。本当に何もかもがめんどくさくなってきたから。
人生の最後までこんな調子の私は、つくづく醜い存在なのだと、そう思ってしまう。
ふと感じるものがあって、私は足を止める。そしてもう一度、今度は少し小走りに歩いた。
……間違いない。つけられている。
(あちゃ〜。見つかっちゃったかぁ〜……)
喧騒の激しいこんな繁華街では誰にも聞こえない声で私は泣き叫んでいた。いかにも華の女子高生だと言わんばかりのこの制服に、少しばかりの恨み節を込めながら。
ちなみに私はこういう周囲からのシグナルに対して、非常に敏感な方らしい。恐らく今私をつけている足音から、ざっと三十メートル以上は離れているだろう。なにそれ、貴女はニュータイプか何かですか?って、そう思われても仕方ないだろう。それでも私は気づいてしまうんだ。この敏感さだって、別に私にとっては嬉しくなんともない。だってこんなの、他の人から見たら脅威以外の何物でもないだろうし、気持ち悪がって当然だろうしね。
(……うん。これで大丈夫……っと?)
こんな調子である故、私はストーカーとか鬱陶しいマスコミなどとは無縁の人間だ。きっとあいつら、私のことを相当煙たかっがるんじゃないかな。誰もがどこかで抱えているであろう金欲も性欲も、私の前では全て無力であるということ。本当に可愛そうな連中だ。くわばらくわばら。
だけど今日のそれは、どうやらそんな連中とは少し違う質の何かであるようだ。
まるで私の行動を、心の奥底を読んできている……?
でもそんなことって本当にあるかなぁ? 私みたいな人間を必要以上に観察するとか、私以上の悪趣味であるに違いない。関わるとめんどくさいだけだし、どうせその前に諦めてしまうというのがいつものオチだ。
それでも追いかけてくるとか、趣味が悪いというより、度を越していて気味が悪いんだけどな。
……ううん。だけどそんな人間ばかりでないことにも気づいてはいるつもりだ。いつも教室の私とは反対側の端っこに座っていた彼は、どちらかというとそっち側の人間だった。視線が違う。私を憧れよりも、哀れんだ目で見てくる。同級生の女子に対してそんな目をぶつけてくるとか、正直どうかと思うけど。
彼の名前、なんて言ったっけ? もう忘れちゃったな。
(あ〜あ。本当にめんどくさいなぁ〜)
それなら、こういうのはどうだろう?
私は目の前の横断歩道を渡って、百八十度の方向転換をする。すると後方にいるはずのストーカー君とは、横断歩道を跨いで相対することになるわけだ。まるで戦国時代の有名な武将が使う戦法みたいなお話だね。川を挟んで、敵と真正面から睨み合う。まさに一触即発って感じかな。
だけどここで私は、思いっきり川の中へ飛び込むの。
川の流れは激しいから、恐らく対岸にたどり着く前に、私はその勢いに流されてしまうだろう。そのまま川底へと沈んでいき、冷たくなった身体を引き上げた頃には見るも無残な姿へと変わっているはず。
だから沈むなら海の底がよかったんだ。あっちの方がそう簡単には浮かび上がってこないだろうし、運が良ければ誰にも気づかれないまま自然の中へと還っていく。人が一人いなくなったところで失踪程度にしか思われないだろうし、それならいっそその方が都合良かったんだ。
だけど何もかもがめんどくさくなったから。私って、本当に馬鹿な人間だよね。
……そう思った時、既に私は川の中を泳いでいた。
川の幅は車の横幅四台分。およそ二十メートルといったところか。当然対岸にたどり着く前に私の身体は横に押され、押し潰され、何も残らない程度に消し飛ぶはず。どうせならそれが誰なのか、わからない程度には消えてなくなりたい。そう強く願ったんだ。
「…………」
クラクションが鳴り響く。だけど想定より少しだけ、遠い場所から聞こえた気がした。
「……って、ちょっと?」
「は、はい? なんでしょう???」
何が起きたのだろう? 私にはさっぱり理解できなかった。
信号は間違えなく赤だったし、私は車に轢かれてなければいけないはずだ。
だけどどういうわけか、私はここにいる。……ここって、どこだ?
「……じゃなくて、どこ触っているのよ!!!!」
よく見ると私の身体は男子高校生と思しき人間の身体の中にいた。私の胸をがっしり掴んでくれていて、今になってとんでもない感触が私の身体を襲ってくる。……うん。彼はきっと悪くないとは思うけど。
「あの、さ。ここってひょっとして、天国とかだったりする?」
本来なら私は天国にいるはず。……いや嘘。私がいる場所は間違えなく地獄かもしれない。
「は……? いや普通に現世の横浜って街だけど」
「…………」
だけど彼の言うとおり、間違えなくここはさっきまでいた横浜の光景そのままで。
ようやく私は体勢を立て直し、その場の地面へと足を下ろす。ここはさっきストーカー君と相対した横断歩道の向こう側。つまり、ストーカー君が居たはずの場所。てことは、こいつが私を付け回していたストーカー君ってことだろうか。
にしてはやはりいろいろ妙だ。
「ひょっとして……気づいちゃった?」
「ん……? いや別に何も」
そもそも私に対する反応が薄すぎる。自分というやつを殺そうと、私は横断歩道へ飛び込んだ。それだけでも何かしらの反応はあるはずなのに、しかもそれをやらかしたのは他でもない私だよね。いつもストーカーやマスコミに追いかけ回されてるはずの人間が、そんな突拍子のないことしたはずなのだ。
「ふふっ。変なの!! こんな面白いことが起きたのに、誰も気がつかないんだ?」
私を誰も振り向かない。まるで最初から何もなかったように。
「変? それより君は本当に大丈夫なのか?」
そう。本当にこれは、何も起きなかった時間の流れの中だ。
「大丈夫も何も、私はぴょんって飛んでただけだし」
「飛んでたって……」
ならばそれでいい。私は空を飛んだだけ。
こんなぶっ飛んだ話、そうしておいた方がお互いスッキリする。
「てかよく見たら君、リッキーじゃん!」
彼の顔をよく見ると、その顔は見覚えのあるそれであることに気がついた。いつも無表情で、男の子にしてはどこか頼りなさそうで、だけどその顔で私に哀れみの目をぶつけていた彼。まるで私の何もかもを見透かしてるようで、私が生きていた頃、最も苦手としていた同級生。
そうだ。リッキーだ。何故さっきまで彼の名前を忘れてたのか、どうにも私らしくない。
ま、今から自分を殺そうとしてるような人間に、私らしさなんてあったものじゃないだろうけどね。
……そう。これが彼との再会。月香とリッキーが初めて出逢った場所でのお話。
私は彼を二度と裏切ってはいけないはずだったのに、結局私は何をしているのだろうね。