これがもう一つの時間が流れ始めた瞬間だった。
あまりにも一瞬の出来事で、本当に何が起きたのかわからなかったんだ。気がつくと僕の両腕に彼女の体重がずしりとのしかかっていて、徐々に痛みさえ伴ってくる。いや、彼女の身体が重いとかそんなことはなくて、見た目通り華奢な身体で、ただし出るところはしっかり出てるというか、彼女の生暖かい体温がその柔らかい胸部から僕の前腕に伝わってくるんだ。
そもそもどうしてこんな格好になっているんだ? 彼女はどこかから飛んできて、僕は慌ててキャッチしただけ。やっと彼女の身体を支えている。どことどこが触れているとかあまり考えたくもないけど。
僕の耳に響いていたクラクションの音が微かに残り、そのまま消えていった。
「…………」
沈黙。彼女の身体を落とさないようなんとか彼女の顔を覗き込むと、彼女自身も何が起きたのかわからない様子だった。それにしてもなんて顔をしているのだろう。辺りは暗くぱっと見では気づかなかったけど、電灯に照らされた黒髪の彼女は間違えなく美人で、どこか神々しささえ感じてしまう。
「……って、ちょっと?」
「は、はい? なんでしょう???」
どうやらようやく彼女も正気を取り戻したらしい。
「……じゃなくて、どこ触っているのよ!!!!」
もちろん正気を取り戻したということは、こういう文句の一つや二つ言われることも当然かもしれない。けど僕にとっては不誠実極まりない罵りであるように思うんだ。
今にも星が降りそうな五月の夜空の下、降ってきたのはとてつもなく美人な彼女だったわけで。
「あの、さ。ここってひょっとして、天国とかだったりする?」
「は……? いや普通に現世の横浜って街だけど」
「…………」
唐突に何を言っているのだろう。……ああ、そうか。ひょっとして彼女は先程の車に轢かれそうになったのだと勘違いしたのだろう。厳密には彼女は降ってきたのではなく、車をかわそうと僕の腕の中に飛び込んできただけかもしれない。
そう考えながら彼女の顔をまじまじと観察していると、彼女も不思議そうに僕の顔を眺めてくる。特徴的な大きな黒い瞳をぱちくりさせながら、何か考え事をしているようだ。
「ひょっとして……気づいちゃった?」
「ん……? いや別に何も」
それにしてもなかなか話が噛み合わない。僕は何に気づけるというのだろう。気づいたといえば彼女は恐らく僕と同じ年くらいだろうってこと。ただ彼女が聞いてきたのは間違えなくそんな話ではないはずだ。
ふと周囲を見渡すと、夜の横浜の繁華街の交差点にはちょっとした人だかりができていた。『交通事故? でも、大丈夫そうね』と、そんな囁き声があちこちから聞こえてきて明らかに注目を集めてしまっている。彼女は恥ずかしそうに僕の身体を盾にして身を隠そうとするが、かといえそれ以上の視線があるわけでもない。すると彼女も諦めたかのか、今度は声を大にして笑い始めた。むしろ僕のほうが恥ずかしいくらいだ。
「ふふっ。変なの!! こんな面白いことが起きたのに、誰も気づかないんだ?」
「変? それより君は本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫も何も、私はぴょんって飛んでただけだし」
「飛んでたって……」
そもそもどこをどう飛んだらお互いあんな体勢になるのだ?
「てかよく見たら君、リッキーじゃん!」
「……え。君、僕のこと知ってるのか?」
僕の名前は上郷理月。そんな名前であるが故、クラスメイトの一部は僕のことを『リッキー』と呼んでくる。でも決して僕も友人が多い方ではないし、ましてや女子からその名で呼ばれた記憶は間違えなくない。
だけど僕の返事に慌てたのは、なぜかむしろ彼女の方だった。何かを思い出したかのように咄嗟に肩から下げていた水色のショルダーバックを手にすると、中から自分の生徒手帳らしきものを取り出したんだ。
「ふーん、なるほどー。そういうことか」
「てか、その生徒手帳……」
しかもその生徒手帳には見覚えがあった。そんなの当然だ。僕の学校の生徒手帳と同じものなのだから。
よく見ると彼女が来ている制服だって僕の学校の女子生徒が着ているものと同じもの。これまで気づけなかったのは、彼女から放たれる真っ白なオーラのせいだろう。彼女の存在全体が常に灯りに照らされてるようで、こんな夜の街中でもまるで昼間の出来事のような時間が流れていた。そのせいで彼女の制服だって完全に白い闇に飲み込まれてしまい、姿形がぼんやりしてしまっていたから。
でもだとするとなおさら変だ。なぜ僕は彼女を知らないのか?
僕の名前をあだ名で呼ぶくらいの間柄で、こんな容姿の彼女であるならば……。
「ねぇ。私、この住所だけ知らないんだけど、リッキーは知ってる?」
「え。住所? ……ああ、ここなら僕の家の住所だけど……って、ええぇ!???」
彼女が見せたのは生徒手帳の裏表紙の名前と住所。つまり、彼女の名前は津山月香といい、僕と同じクラスで、住所はどういうわけか僕の家に住んでるってことになってるらしい。
「ふーん、そっか。だとしたら今日からお世話になるね。リッキー」
「は、はい……???」
これは一体、どこの世界の誰のお話なのだろう。もしかすると彼女の夢の中のお伽噺なのかもしれない。とにもかくにも得体のしれない女子生徒を突然自分の家に連れ帰ることになってしまい……。
いや。こんな美人なクラスメイトと一緒なら、実はちょっと嬉しいとか思ってるかもしれない。
それはそれで、男としてどうなんだ……?