彼女の名前は、黒峰洋花。中学の頃のクラスメイトで、いつも教室の窓際の席に座っていた。
もっとも、彼女の姿がそこにあったことはほとんどなかった。その席に彼女がいたかと思えば、気づくとそこからいなくなっている。まるで幽霊のような存在にも思えたほどだ。
なぜなら彼女は『百年に一度の天才女優』。そう呼ばれる程に、世間から必要とされる人だったから。
ある有名な映画監督は雑誌の中で、彼女をこう評していた。『一瞬にして作品の背景や現場の空気を全て読み、ここに必要な演技を完璧にこなす』と。監督から演技指示を出すことはほとんどなく、監督の顔色、共演者の息遣いから、なすべく演技を全て計算して導き出すのだと言う。この記事を本屋で読んだ時、そんな大人でも難しそうなことをどうして僕と同じ中学生ができるんだ?と疑問を抱かざるを得なかった。
「ねぇどうしたのよ。さっきからむすっとしちゃってさ」
「…………」
だからなのか。彼女の代わりに現れた月香のことを、僕はどうしても許せない。
「ねぇ。美味しいよねこの料理。リッキーもちゃんと食べてる? あ、ほら。口元に何かついてるよ」
「あ、ああ……」
味がわからないわけない。先日陽川と食べたパスタだって、もちろん美味しいと感じていた。今僕の目の前にあるのはビーフシチューだけど、こんな高級レストランの料理なんて、美味しくないわけがないんだ。
でも、あの日のパスタより薄味に思えてしまう。不思議なほど、あまり味を感じない。
空気とか心の中とか、見えないもの全てを読んでしまう奇想天外の天才。そのはずの彼女は何もなかったように、僕をリッキーと呼んでくる。僕を下の名前で呼んだのは、あの時の一回だけ。恐らくは何かを一瞬で悟り、何かを狂わせ、月香は思うがままに振る舞ってくるのだろう。
僕はそんな月香を、どうしても許せなくて……。
だってそんなの、さすがにあんまりだろ?